クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

罪からの解放・自由(2)

 パウロは人間の罪についてこう語っています。

 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 具体的に私自身のことを語ろうと思います。私は罪から解放され自由にされたことを喜んでいます。心が清められたことを喜んでいます。それは罪を犯さない人間になったということではありません。これからも罪を犯すことはあると思います。しかし罪の支配から解放されたと思っています。

 まずは、自分を他人と比較することから生まれる罪があります。他者を自分より優れていると見なすとき、劣等感が生まれ、妬みが生まれます。劣等感も妬みも罪です。自分を肯定的に受け入れることができなくなります。時には卑屈になったりします。神さまを恨むことさえあります。自分よりよい説教をする牧師がおり、自分より深く考える長老がおり、自分より聖書をよく知っている信徒がいます。どんな顔をして牧師をしたらいいのかと思ったこともあります。

 自分を他者と比較することから生まれる罪には、高慢もあります。他者を見下し、自分を誇るのです。人間は自分に誇りを持たずしては生きていけない面がありますから、人を裁き、自分を他者より上に置き、自分はこれでいいと思ったりします。鼻持ちならない人間になってしまいます。

 これらの思いを私は持ちました。そんな自分でいることがいいとは思いませんでした。しかしそうならざるをえないのです。つまり罪に支配されていたのです。罪の奴隷だったのです。しかしそのような思いからの解放、自由が与えられました。

 それは自分が神さまに愛されている存在であると知ることによってでした。自分は神さまに愛されている、それなら自分を卑下することも劣等感を持つこともないと思いました。高慢になる必要もありません。神さまに愛されているありのままの自分を受け入れないなんておかしなことです。ありのままを受け入れることができるようになりました。神に愛されていることを知ったと言っても、特別な体験があるわけではありません。聖書に書かれていることを信じたのです。

わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
(ローマ5:8)

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
(ヨハネ一4:10)

 神さまは私を個性ある人間として創造されたと信じるようになりました。言い換えると私には長所も短所もあり、得意なことも苦手なこともあるということです。私には私の賜物が与えられていると信じるようになりました。自分を喜んで受け入れることができるようになりました。自分に縛られることから解放され、自由になりました。

 人を裁く思いは、別の要因からも生まれます。つまり自分の歩みを邪魔する者を裁くということです。牧師として教会の前進を願うとき、あの人は邪魔だと思うことがあります。あの人がいなければ、と思うこともあります。心の中で裁くのです。他者を裁く教会員に、裁くのではなく、その人のために執り成しの祈りをしましょうと教えたことがあります。そしてそれは自分に対する教えとして返ってきました。他者を裁いても益はありません。執り成しの祈りをするようになり、裁く思いから解放されました

 困難な状況にある人が教会に訪ねてくると対応します。関わりたくないと思います。なぜそう思うのかというと、自分の力で助けることができないと思うからです。自分の無力さを思い知らされるのがいやなのです。傷ついたサマリア人を見過ごしにした祭司やレビ人は、そのまま私です。関わるべきか関わらざるべきか、いつも悩みました。愛の薄さを思わざるを得ませんでした。自分の力で何とかできるかできないか、それは自分の力に頼る傲慢だと知りました。神さまにゆだねて、しかし自分のなすべきことは行うということを学びました。

 罪から解放される、自由にされるとは、罪を犯さない人間になったということではなく、罪に支配されることがなくなったことを意味します。罪を犯すことはあるかもしれませんが、罪に勝利することができるようになったということです。そこには喜びがあります。何よりも福音を味わう喜びがあります。聖書の語ることが真実であると知る喜びがあります。