主は世界中至る所を見渡され、
御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。
(歴代誌下 16章9節)
折に触れ、思い出す聖書の言葉です。聖書を学びたいという思いで神学校に行きました。卒業する時は、牧師として生きるのが自然という気持ちになっていて、牧師になりました。今思うと気持ちの変化に驚きます。その当時は自分の気持ちが変化していることにさえ気づいていませんでした。考えてみると、神さまからの召命を明確に認識したことがないのです。神学校に入学するために、召命感について作文を書きましたが正直、苦労しました。
牧師になって何年かして、教会員が次々に病気になり、これは何なのだと考えさせられたことがありました。聖書を読むとイエス様は病人を癒しましたし、ペトロもパウロも病人を癒しました。病気の教会員のために「いやして下さい」と祈ります。でも神さまがいやしてくださるとどれほど信じて祈っているのでしょうか。お決まりの言葉で祈っている自分が嫌でした。何としても癒してほしい!神癒ということを考えさせられ、福音書の奇跡物語を何度も読み、神癒についての本も読みました。
イエス様は弟子たちを派遣しますが、その時、「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と命じています。自分もイエス様に召されて牧師になった、本当に召されているなら、弟子たちと同じように病人を癒すことができるのではないか。「イエス様、あなたがわたしを真に牧師に召して下さっているなら、是非、病人を癒して下さい。牧師に召して下さったしるしとして癒しを与えて下さい」と祈った日々もありました。
しるしが与えられたという認識はありません。自分が福音宣教者に召されているという確信が欲しかったのです。ある時、「あなたは本当に福音を宣べ伝えたいのか。あなたの心に正直に聞きなさい。宣べ伝えたいなら、それが召されている証拠だ」。そんな主の声が聞こえてきたように思いました。
この歴代誌の言葉は大きな励ましになっています。私がデボーションを続けているのも、神さまと心をひとつにしたいとの思いがあります。
*デボーションについては「御言葉に生きるための提案」のサイトを見てください。