クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の出来事に対して心を開く

 今、ヨハネによる福音書の9章を読んでいます。イエス様が生まれつき盲人の目を見えるようにしたという出来事に端を発した物語です。イエス様のことを信じようとしないファリサイ派の人たちの頑なさが極みに達したように思います。

 ファリサイ派の人(途中からユダヤ人として描かれている)は、目が見えるようになった人が、私はイエスによって目が見えるようになったと語っているのに、目が見えるようになったというその事実を信じようとしませんでした。

 この頑なさに対して対照的なのが盲人です。彼は目が見えるようになり、次のように語ります。生まれつき盲人の目が見えるようになったというようなことは聞いたことがないが、それが起きた、しかもわが身に。神は罪人の言うことを聞くことはない、だから自分の目を見えるようにした人は、神のもとから来た人にちがいない、と素直に考えています。神の出来事に対して素直に心を開くことの大切さを思います。

 私には一つの心配があります。聖書が語るメッセージに対して、信仰者である私たちが心を閉ざしているのではないか、との懸念です。イエス様を信じる人は神の子とされ、新しい命(永遠の命)を与えられ、新しく生まれ、神さまの恵みの支配の下を歩み、罪に打ち勝ち、義とされた者にふさわしい人に変えられ、神の国に迎えられるにふさわしい者とされる、つまりキリストに似た者へと造りかえられていくとの聖書のメッセージがどれほど信じられているのかという危惧を持ちます。

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。(ガラテヤ3:26)

はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている(ヨハネ6:47)。

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(コリント二5:17)。

なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです(ローマ6:14)。

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です(ローマ6:22)。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです(コリント二3:16)。

 もしかして「そんなこと実感できないから、受け入れられない」ということがあるのではないかと危惧します。実感できないから信じられない、信じない、それはファリサイ派の人たちとは性質は違いますが、自分の感覚を絶対化するという一種の頑なさになるのではないでしょうか。

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近鉄奈良駅前 托鉢をしている僧侶の方をよく目にする。右には行基の像