クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信仰によって義とされる(3)

 信仰に生きようとする私たちの前に「実感」という大きな壁があるように思えてなりません。

 信仰に生きる私たちが、私は神さまの前に義であると確信をもって告白できないことが多いと思います。自分は罪を繰り返しているし、誘惑には負けるし、神さまを疑い、神さまを恨んだりすることがあります。それでもなお自分は義とされていると告白することにためらいを感じてしまうのです。

 しかし神はそのような私たちを罪に定めません。神さまは、私たちを聖なる者、汚れのない者にしようと救いの恵みを与えてくださるからです。御子の姿に似た者にしようと救いの恵みを備えておられるのです。それは聖霊の働きです。この救いの恵みのゆえに、神さまは私たちを義とし、私たちに期待しているのです。

 ところがこの聖霊の働きが今ひとつわかりにくいのです。教会の中には、信仰年数の多い信仰の先輩がいます。これらの先輩が聖霊の働きを受けて、聖なる者に変えられていく証しをしてくれると私たちは励まされます。現実には、そのような証しはなかなか聞こえてきません。それゆえ、私たちが聖霊の働きを受けて聖なる者に変えられていくという実感を持つことができないのです。

 するといつの間にか、聖なる者を目指す歩みがされなくなるのです。罪は犯すが赦しを受けることができるので、それでいい、となってしまうのです。赦しの恵みこそ福音だと思ってしまうのです。とても残念なことです。私たちは信仰によって歩むのであり、実感に従うのではありません。

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 「信仰を通して実現される」。これがポイントです。これがどういうことかわかりにくいのです。

 私たちを励ます聖句を紹介します。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
(コリント二5:16)。

召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
(ペトロ一1:15-16)。

 神さまの命令は、約束です。私たちは従うことができるのです。信じるのです。信じられないというのなら、「私たちは従うことができる」と考えて行動するのです。信仰を通して、約束は実現します。(続く)

 

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散歩道にて 落ち葉