クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信じたい、信じられない

 今、ヨハネ福音書14章を読みながら黙想しています。13章の終わりでイエス様は、自分が行くところに弟子たちはついて来ることができないが、後からついてくると語られました。ペトロは、自分はあなたのために命を捨てる覚悟があるので一緒に連れて行って欲しいと語ります。するとイエス様はペトロに「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と語り、ペトロの喉元にナイフを突き刺すような言葉を投げかけます。

 「ついて来ることができない」と言われ、イエス様に突き放され、見捨てられたかのような気分を味わい、ペトロに対するイエス様の言葉を聞いて弟子たちは心を騒がせました。そこでイエ様は言うのです。

「神を信じなさい、わたしを信じなさい」

 弟子たちの心の動揺は、イエス様のこの言葉を聞いても簡単にはおさまらなかったと思います。

 弟子たちは神を信じています。イエス様をも信じているのです。でも今、イエス様に見放され、ペトロに対するイエス様の言葉を聞いて、不吉な予感を感じ、心の動揺をどうしようもない弟子たちがいるのです。「信じなさい」と言われても、簡単には信じられないのです。

 昔イスラエルの民がエジプトを脱出し荒野を旅し約束の地を目指しました。約束の地を前にしたときモーセは偵察隊を遣わし、約束の地がどのような土地かを探らせました。偵察隊は、良い知らせと悪い知らせをもたらしました。肥沃な土地で良い土地ですと良い報告。そこには強そうな民がいると悪い報告。悪い知らせを聴いた民は怖じ気づき、「進もう」と励ますヨシュアを殺そうとさえしました。不安や恐れに囚われたときこそ、信ずべき時です。しかし不安や恐れに囚われているから、信じることができないのです。

 イエス様は「神を信じなさい、わたしを信じなさい」と語られます。イスラエルの民は、信じることができず、エジプトに引き返そうなどと語りました。「信じよう、でも信じられない」の葛藤の中におかれると人は信じない方に傾きます。信じて進んだ場合、もし期待通りの結果が得られなかったらどうしようと思うのです。

 信じるべき時に信じられないという葛藤を覚えるのが私たちです。この葛藤をいかにしたら乗り越えることができるのか、私は悩み、考えてきました。理性による解決です。しかし理性には、この葛藤を解決する力はありませんでした。理性はこの葛藤から抜け出ることはできませんでした。神さまだけが解決できます。必要なことは祈ることです。一つの祈りは、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)です。

 聖書を思いめぐらす、楽しいです。

 

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