クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

キリストに捕らえられて

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(フィリピ 3:12)。

 パウロは自分がキリストに捕らえられている、と語ります。では「私」はどうなのか、と思いめぐらしました。結論は、私もキリストに捕らえられている、です。ただ今まで自分がキリストに捕らえられていると意識したことはありませんでした。しかしキリストに捕らえられているということ、言い換えれば、キリストが私を捕らえてくださったということの気づきを与えられました。感謝です。あらためて聖書を思いめぐらすことの恵みを知ります。

 私がキリストに捕らえられていると思う第一の理由。何があっても私は信仰を捨てません。たとい一億円お金と積まれても信仰を捨てることはしません。無牧のG教会に説教奉仕をしています。駅から車の送迎をしてくださるOさんが言います。「たとい一億円積まれても礼拝を休みません。説教を聞きたいから」。お金と引き換えに信仰を捨てたり、礼拝を休んだりしない、それはキリストに捕らわれているからです。信仰を持つ以前の私は、死の恐れに捕らわれ、空しさに捕らわれていました。この状態には何があっても戻りたくないです。キリストに捕らわれる方がはるかに好ましいです。

死の恐れ 生きる空しさ なにものぞ
 われを捕らえる キリストすべて

 私がキリストに捕らえられていると思う第二の理由。幼友達が名古屋に就職しました。ある時出張で東京に来たので、一晩私のアパートに泊まってもらいました。私は彼に言ったのです。「僕には一つ憧れがあるんだよね。牧師になりたいとの憧れ。でも人間関係が苦手な僕だから、無理だと思っている」。

 やがて聖書をもっと知りたいとの気持ちに導かれました。仕事をしていたので、教会で聖書を学ぶ機会がありませんでした。せっかくなら、ということで夜間の神学校を受験することにしました。昼間は仕事をしているので夜間の神学校を選びました。願書と共に「召命」について書いた文書を提出しなければなりませんでした。召命というのは、牧師になるように神から呼びかけられたという自覚です。そんな自覚はありませんでしたから、文字通り作文です。それらしきことを書いて提出しました。

 無事に入学でき、4年間神学校で学びました。朝6時半に家を出て会社に行き、家に帰ると夜の11時頃という生活でした。不思議なもので4年生になる頃には、牧師になるのが当たり前という心境に導かれていました。これもキリストに捕らえられていたからだと今、思います。

キリストが われを捕らえる ありがたさ
 意識せずして 今まで生きる

何とまあ 迂闊な者で あることか
 気づかせたもう 神をたたえる 

  30数年の牧師としての歩みもキリストが私を捕らえ、支えてくださっての歩みだったと信じます。

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2月9日G教会での礼拝の説教を説教サイトにアップしました。
時間のある時、是非、聞いてください。
こちらをクリック
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