近藤勝彦氏はその著『贖罪論とその周辺』で洗礼について述べています。その中で、日本のプロテスタント教会は、洗礼を大切な教会の行為として尊重してきた、しかし洗礼とは何かをめぐっては充分な理解が行きわたっていないのが日本の教会の実情であろうと書いています。そして「洗礼が何を意味するか、またなぜ洗礼を受けなければならないのか、洗礼の効果は何かといった事柄について日本のプロテスタント教会はまだ成熟した共通理解に到達していない」(p260)と書いています。近藤氏の指摘に私は賛意を示す者です。そして教会の実情に憂いを抱いています。
私自身が洗礼を決意したとき、洗礼準備会が開かれ、牧師の指導を受けました。私の場合は、『日本基督教団信仰告白』の内容の簡単な解説を受けました。礼拝の中でこの信仰告白を告白しますのでその意味を学んだというわけです。正直言えば、これから信仰生活を始める者にとっては説明を受けましたがチンプンカンプンでした。「聖書は信仰と生活の規範?」「父なる神?」「陰府に降り?」「聖霊を信ず?」。
牧師となり、洗礼を希望する者に準備会を行いますが、何をすればいいのか、正直戸惑いの中にありました。信仰的な内容は信仰生活の中で理解されていきますから、教会に連なる者として信仰者が知っておくべきようなことを伝える準備会をしました。ある牧師は準備会で、ハイデルベルク信仰問答を一年かけて学ぶことをしていると聞いたことがあります。牧師によって準備会の内容は違ってくると思います。
信仰生活を始めた教会員に信仰養成という形で学びをするのがよいというのが私の結論です。洗礼とは何かも、そこで学べばよいと思います。洗礼について語る聖句を一つ紹介します。ローマ信徒への手紙6章3節。
キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、
(口語訳)
キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち
(新共同訳)
キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちは
(新改訳)
ギリシャ語聖書を忠実に訳すと
キリスト・イエスの中へと洗礼を受けた私たち、
となります。洗礼はクリスチャンとしての歩みを始めるための礼典(儀式)ですが、単なる儀式でないことはこの聖句から分かります。