福音は神の力です。罪人を再生させる神の力です。それは洗礼から始まります。
奈良高畑教会のイースタ礼拝では洗礼式が行われました。受洗志願者が司式者の前に立ち、式が始まります。最初に序詞が読まれます。司式者が読むのを聞いて驚きました。私の心に響きました。新しい式文を用いて洗礼式が行われたようです。序詞の中でこのようなことが書かれています。
「洗礼によって、神は私たちに聖霊の証印を押して、御自分の民としてくださいます。また、死んでよみがえられたイエス・キリストに結び合わせ、罪と死から解放してくださいます。さらに、水と霊とによって新たに生まれ変わらせ、キリストの体である教会の一員としてくださいます」。
私が現役の牧師の時に使用した式文は、聖書の引用が多く、結局何を伝えたいのかが鮮明ではありませんでしたが、今回の式文は洗礼の意義を明確に伝えていました。
洗礼を受けることによって、私たちはクリスチャンとしての歩みを始めます。洗礼式は信仰者の生涯の出発点です。そして罪人の再生の始まりです。洗礼を受けるという出来事は神の出来事なのです。そこにおいて神が働かれるのです。その結果、洗礼を受けた人は、
- 罪と死の支配から解放されます。
- 新しく生まれ変わります。
- 聖霊を受けます。
- 罪の赦しを受け、義とされます。(信仰義認)
- 神の子とされます。
- 新しい命、永遠の命をいただきます。
- 神のもの、イエス・キリストのものとされます。
洗礼を受けた人がいかなる人かがここに示されます。言い換えると信仰者のアイデンティティーがここに示されます。クリスチャンとはどのような人なのかが、ここに示されています。洗礼を受け、キリストに結び合わされた人は、上に書いたような人なのです。
神の出来事としての洗礼により、私たちは変えられたのです。これは神の出来事なので、私たちは必ずしも実感できることではなく、むしろ信ずべきことです。「霊的な現実」として、洗礼を受けた者は、上に述べた人に変えられているのです。
クリスチャンのアイデンティティーを信じる、そこからクリスチャンにされた人の再生が始まります。再生の第一歩はこのアイデンティティーを信じることです。