クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

罪人の再生の始まり(6)アイデンティティーの確認(神の前に正しい人)(補足2)

 私は自分は罪深い者だという認識を持っています。しかし私のアイデンティティーは、神の前に正しい者、です。

 洗礼を受ける前、喫煙の習慣が神さまから与えられた体を傷つけていると自分の罪を思い知らされました。それが受洗のきっかけになりました。牧師になってしばらくして、ある時、自分を守るために嘘をつきました。その時は何とも思いませんでしたが、数時間して自分は嘘をついたと思い知らされ、自分は頭のてっぺんから足のつま先まで罪人だと思いました。

 しかし信仰生活を続けていく中で、気づかされた罪をあらためていく中で、自分は正しく生きているのではないかと思うようになりました。自分は罪人であるという感覚が薄らいでいきました。自分の行いを見ている限り、罪を犯しているという自覚がなくなっていきました。自分で気づかずに犯している罪はあるかもしれませんが、「気づかずして犯した罪を赦してください」という祈りはしませんでした。真実味に欠けるように思えました。もし祈るなら「気づかずして犯した罪を教えてください」との祈りになると思います。自分の犯した罪をほじくり返すよりも、聖書を読んで、神様のみ心に従うことを私は大切にしました。

 私は聖書を読みました。思いめぐらし、神さまが示してくださったと思える導きに従ってきました。でもあるとき、思ったのです。

  • 聖書に書かれていることには特別な関心を払ってきましたが、神さまの心そのものを大切にしていたのか、と
  • 神さまという存在そのものに関心を持っていたのか、と
  • 神さまの存在そのものを喜んでいたのか、と
  • 信仰が自己実現の手段になっていたのではないか、と
  • 結局は神さまの心よりも、自分の心を大切にしているのではないか、と。

 こう思ったとき、私は自分は罪深い者であると思いました。自分は罪深い者であるという認識を私は持ち続けています。しかし私は、神に罪赦され正しい者と見ていただいているとのクリスチャンのアイデンティティーに立つことを選び、信仰に歩む自分という存在を喜びとしています。

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