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隠退牧師 holala によるブログ

実はイスラエルも(2)イスラエルの民は神のみ業を見た

 イスラエルの民は神と契約を結び、神の民として生きる決心をしました。イスラエルの民はその契約を結ぶように神に強いられたとは思えません。なぜなら彼らは神のみ業を見ているので、契約を結んでも不思議ではないと思われます。

 イスラエルの民はどのように神を体験したのでしょうか。人は神ご自身を見ることはできません。しかし神が行動した結果を見ることはできます。それを見て、それを偶然起きたことと考えることができますし、いや神が働いておられたのだと考えることもできます。後者は信仰の立場です。

 神はエジプトにおいて大いなる御業を行いました。それはエジプト人にとっては大いなる災いでした。しかしイスラエルの人たちがどの程度神の大いなる御業を体験したのかは明確ではありません。

 確かなことは奴隷であったイスラエルの民がエジプトから解放されたことです。奴隷として苦しんでいたイスラエルの民は神に助けを求めて叫びました。ですから神のおかげでエジプトを脱出できたことは確かです。

 またエジプトを出てからはいくつかの神の存在を示すしるしがありました。第一に約束の地に向かう民を導いたのは、昼は雲の柱、夜は火の柱でした。これはイスラエルの民が目で確認できました。

出エジプト記13:21~22
主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。

 そして忘れがたいのが海の奇跡です。イスラエルの民をエジプトから出て行くように命じたエジプトの王は後悔し、連れ戻そうと兵を率いて後を追います。イスラエルの民が海辺で宿営していると背後からエジプト王の軍隊が迫ってきました。イスラエルの民はパニックに陥ります。しかしモーセは神に祈ります。そして彼が杖を高く上げると海が二つに分かれ、分かれた間をイスラエルの民が歩いていきます。そして向こうの地に着きます。エジプト軍はイスラエルの民を追いかけてイスラエルの跡を追います。しかし二つに分かれた海がもとにもどり、エジプト軍は溺れて死んでしまいます。今一度エジプトから救われます。イスラエルの民は神の目覚ましい救いの働きをありありと見たのです。

イスラエルの民は神が与えてくださった救いを喜び、神を賛美しました。

出エジプト記15:1~5
主に向かってわたしは歌おう。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。
わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
主こそいくさびと、その名は主。
主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み
えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
深淵が彼らを覆い
彼らは深い底に石のように沈んだ。

 イスラエルの民がさらに旅をして荒野を進んでいくと飲み水に困ることが起きました。また食物に困ることも起きました。すると神はイスラエルの民に不思議な仕方で飲み水と食べ物を与えました。出エジプト記15~17章。イスラエルの民は神の助けを体験します。

 イスラエルの民はやがてシナイ山の麓に着きます。シナイ山は雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛が鳴り響いて、山は煙に包まれていました。イスラエルの民は神の臨在を覚えました。

 以上イスラエルの民は、神を体験したのです。しかも自分たちを助けてくれる神として、神を体験しました。そして神はイスラエルの民に、神の民として生きていくように招かれたのです。イスラエルの民はこの招きに答え、神の民というアイデンティティーに生きることを選びました。イスラエルの民は、神の民として歩むことを決心し神と契約を結びました。イスラエルの民は、神の民として生きていくこと、神さまの教えに従うことを約束したのです。

 

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