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隠退牧師 holala によるブログ

実はイスラエルも(5)そもそも信仰に生きるとは

 荒野の40年の生活を終え、ヨシュアに率いられたイスラエルの民は神が与えると約束した地に入ります。イスラエルの民は戦いをして土地を獲得していきます。エリコの町の攻略は興味深い物語です。エリコはイスラエルの攻撃に備えて城門を固く閉ざしました。その時、神はヨシュアに命じるのです。

ヨシュア記6:2~5
見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。

 神ははっきりとした指示をヨシュアに語ります。ヨシュアは民に神の命令を伝え、これを実行しました。神は言葉をもってイスラエルの民を導く方としてご自身を現されました。イスラエルの民は神が彼らに語りかける方であることを確認することができます。六日間、毎日エリコの町を一周します。そして七日目、鬨の声を上げると城壁が崩れ、イスラエルはエリコの町を攻略しました。イスラエルの民ははっきりと知りました。

  • 神は生きて働かれる方である
  • 神は具体的に自分たちに関わり助けてくれる神である

 その後イスラエルの民は今のパレスチナの地を獲得し、土地を分割して部族ごとに定住することとなりました。指導者ヨシュアが死んだ後、問題が起きました。

士師記 2:8~14
 ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。
 その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。

 何が起きたのでしょうか。イスラエルの民の世代交代が起きたのです。神を知らず、神の御業も知らない世代が現れたのです。すると彼らは周辺の民族の神を礼拝するようになりました。これは「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」との十戒を破るものです。その結果、彼らは神の怒りを買いました。神はイスラエルを略奪者の手に任せたので、イスラエルは苦境に立たされました。すると神はイスラエルの民を救い出そうとします。

士師記2:16~19
主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった。

 士師記には、イスラエルの民が他の神々に従い、神の怒りを買い、苦境に立たされる、すると神はまた士師を立てイスラエルを救う、ということが繰り返されたことが書かれています。

 このような聖書を読んで教えられます。

  • 第一に信仰の継承がなされなかったということです。特に神さまがイスラエルのために何をしてくださったのか、それが伝えられなかったことです。
  • 第二に、人はいとも簡単に偶像礼拝に陥るということです。
  • 第三に聖書の神信仰が独特の信仰であることです。

 まずイスラエルの民の間で信仰の継承がなされませんでした。神がいかなる方か、何をしてくださったのか、神に対してどのような態度で接したらよいのか、など伝えられませんでした。現代と違い、紙に書いて記録することが簡単にはできませんでした。口で伝えることになります。それがうまくなされませんでした。必然的にイスラエルの民は周辺の民族の人たちの信仰にならうこととなりました。すなわち偶像礼拝に陥りました。

 偶像礼拝は十戒に違反します。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。ではなぜ、イスラエルの民は偶像礼拝に陥ったのでしょうか。人間にとって偶像礼拝をすることはある意味で自然の成り行き、必然といってよいと思います。つまり人間は全能の存在ではなく、物事を自分の思い通りにすることはできません。農耕に生きる人は自然災害が起きれば困窮します。健康が必ず守られるとは限りません。思いがけない事態が起きたら無力なのが人間です。そこで助けを求めて祈りたくなります。神でも仏でも何か絶対的なものにすがりたくなります。逆に特定のものを神と崇め、それにすがるということが礼拝ということで行われるようになります。

 そしてこの場合の信仰は、神は人間を助けてくれればよいというものです。助けてくれることを期待して人々は神を拝むのです。神を祀(まつ)るのです。そこに宗教的な儀式が生まれます。このような信仰は今も至る所に見られます。私が住んでいる奈良には神社仏閣が多く、たくさんの観光客が手を合わせています。手を合わせて祈り、手を合わせる相手が何らかの形で自分の願いを聞いてくれることを願います。それだけを期待します。商売繁盛、家内安全、恋愛成就、受験合格・・・・。

 あらためて聖書が伝える信仰は独特だと思います。聖書の神は人間に語りかける神です。人間と関わろうとする神です。人間を愛し、人間を救い、人間と関わる神です。神を信じるとは、この神の語りかけを聞き、神の働きかけを受け、それに応答するということです。そしてこの神に語りかけ、神に働きかけ、神に信頼して生きるということです。つまり神との交わりに生きるのです。聖書の信仰は独特です。

 イスラエルの民は、この神を信じる独特の信仰、神との交わりに生きる信仰へと招かれました。この神との交わりに生きることがキリスト教の信仰でもあることは、きちんと教えられる必要があると思います。教えられなければこの信仰理解に達することはむずかしいからです。

 

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お地蔵さんがあちこちにあります