クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(7)聖なる者として生きる-3

 クリスチャンは世の他の人々とは区別された人、神のものとされた人です。イエス・キリストを信じ、罪赦され、神の子とされました。そして聖なる者とされました。聖なる者の生き方について聖書に聞きます。

エフェソ1:4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

 聖書が語る聖なる人の生き方の第一は「汚れのない者になる」ことです。具体的に書かれています。

エフェソ5:3
あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。

コロサイ3:5~10
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。

ガラテヤ 5:19~21
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 以上のように、聖書は汚れた行いというものが何かを具体的に書いています。人間社会を見ればありふれた事柄です。このようなことを行う人々と区別されたのがクリスチャンです。神のものとされたクリスチャンです。聖なる者というアイデンティティーに生きようとするなら、まずこれらのものを避けること、捨てることが大切です。これらのものと縁を切らなければなりません。

 ところが私たちの心には、現実にはよこしまな思い、汚れた思いがわいてきます。わいてくるのを抑えることはできません。わいてくるからといって、自分の心は汚れている、私は聖なる者ではない、などと思う必要はありません。大事なのは、そのような思いがわいてきた時どうするか、です。わいてきた思いを捨てることです。思いを他にそらすのです。別のことを考えるのです。祈るのです。そして個人的なノウハウ(対処の仕方)を身につけるとよいと思います。そうするとそれを証しとして語ることができます。

 他者を批判したり悪口を言いたくなる時には、その人のために執り成しの祈りをします。自分が損をしないために、時にごまかしたり、理屈をつけて損をしないようにしたりすることがあります。小さな損は惜しまず、神さまが祝福を備えておられると信じます。誘惑が来たら目をそらし、別なことを考えます。

 大切なことは、聖なる者としての歩みを続け、成長していくことです。成長は一歩、一歩です。その一歩、一歩を喜びます。

マタイ5:8
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。

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