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隠退牧師 holala によるブログ

天国への憧れ

 先日山上の説教の最初の「幸いな人」に関する部分をデボーションをしました。思いめぐらしました。

3節
心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

10節
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

 心の貧しい人々、義のために迫害されている人々は幸いだというのです。その理由は、「天の国はその人たちのものである」とあります。「その人たちのものである」。これは今、「その人たちのものである」という意味です。心が貧しくとも、義のために迫害されていたとしても、今、天の国はその人たちのものだから、幸いだというのです。

 普通、天の国は、神さまのご支配を意味すると言われます。人間のおかれた状況がどうであれ、神さまが共におられ、神様のご支配の中に置かれているなら、幸いなのだとのイエス様の教えです。人間の幸せは、人が何を持っているのか、何をしてきたのか、何をしているのか、そういう人間的な要因ではなく、神が共におられることにあるとイエス様は教えられました。

 私は若いとき幸せになるにはどうしたらいいのか考えました。何を手に入れたらいいのか、何をしたらいいのかと考えました。色々なことを試みましたが、そこには幸せはありませんでした。信仰を得て、神が共におられる、それが幸いであると教えられ、またその通りだと思いました。

 イエス様は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣べ伝え始められました。「天の国は近づいた」、これは喜びの知らせです。

 次に、悲しむ人々は幸いである、柔和な人々は幸いである、義に飢え渇く人々は幸いである、・・・と続きます。

5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 

  幸いな理由は、「その人たちは慰められる」「地を受け継ぐ」「満たされる」などの理由が書かれています。これは文法的には未来形なので、将来のことを語っています。今は・・・・であっても、将来は・・・・なる。だから今のあなたは幸いなのだという教えです。将来幸いになるから今を幸いだと考えよ、という教えには無理があります。それは我慢を強いる理屈になります。しかしイエス様の教えは、我慢を強いる教えではないと思います。

 イエス様は天の国のことをよくご存じです。そこで私は、天の国に憧れることを学びます。天の国では、悲しんだ人は慰められるのです。おそらく深く慰められるのです。義に飢え渇く人は天の国では、深く満たされるのです。この天の国での幸いを思うとき、これは今を生きる力になるのではないかと思います。天国への憧れは私たちに生きる力を与えると教えられました。

 昔、礼拝を終えて街の繁華街に行ったときのことを思い出します。人々は神なしに生きています。いかにも幸せそうに街を往き来しています。福音を宣べ伝えることに空しさを覚えたことがあります。その時は、天の国のことは考えませんでした。

 天国への憧れ。しかしその天の国のことはよく分かりません。勝手に理想的に描くことはよくないと思います。しかしイエス様は、天の国は、人が慰められるところなのだ、しかも深く深く慰められるところなのだ、天の国は地を受け継ぐところなのだ、しかも豊かに豊かに受け継ぐところなのだ、天の国は満たされるところなのだ、しかも深く深く満たされるところなのだ、と教えているように思うのです。イエス様は天の国のことをよくご存じです。

 そしてもう一つ思います。悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、・・・人は、実は自分の十字架を背負ってイエス様に従う人のことではないか、ということです。イエス様に従うゆえに、悲しみを味わい、柔和にさせられ、義に飢え渇き、憐れみ深く振る舞うのです。心を清くするのです。それはこの世的に言えば報われないかもしれません。でもそれは問題とはなりません。天の国への憧れがあるからです。そして天の国への憧れが主に従う力になるのです。うれしくなります。

 天の国に憧れる、私のこれからの人生の課題です。主に従う力を与える天国への憧れとはどのようなものなのか、解明したいです。

 

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