クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(16)聖霊なる神を内に宿して生きる-7

 聖霊は、み言葉を通して神のご意志を教えてくださる神です。

 日本基督教団には、信仰告白があります。その信仰告白の中で、聖書は「信仰と生活との誤りなき規範なり」との文があります。聖書が信仰と生活の規範であるとはどういう意味なのか、それを近藤勝彦氏が『わたしたちの信仰~日本基督教団信仰告白解説』(鳥居坂教会文庫)のなかで解説しています。

  • 「聖書から私たちがどう生きたらよいかという非常に細かな指示まで逐一教えられるかというと、私はそうは思いません」。
  • 「どんなことにも対応する中心的な姿勢というものが、聖書によって与えられる。それが信仰ということなのです」。
  • 「本当に聖書によって信仰を養われ、自由自在に判断ができるようになれば、我々の生活はすべて聖書的な生活になるということなのです。わたしたちのなす判断の中心姿勢が聖書によって形作られる。そういう生き方、それが規範だと言っていることなのです」。

 これを私の言葉で言い換えてみます。信仰者は聖書を神の言葉と信じます。信仰者はこの神の言葉、聖書を土台として自分のものの見方、考え方を築きます。そしてどのような事柄に直面しても、いかに生きるべきか、いかに処するかを判断して生きていきます。それが信仰というものです。そして信仰者に指針を与える聖書は、信仰と生活との誤りなき規範です。

 私には、この近藤氏の考えに異論はありません。共感します。多くのクリスチャンがこのように生きることができることを願います。しかし物足りなさを感じるのです。

 「自由自在に判断ができるようになれば」とあります。どのような事態に直面しても、聖書に基づき、信仰的に対処していくことができるなら、これは素晴らしいことです。しかし、ではどこで、神さまの導きを聞くことができるのか、ということです。神さまが私をどこへ導こうとされているのか、それをどこで聞くのか、ということです。

使徒言行録13章の最初を読みます。

13:1~3
アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」。そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。

 聖霊はバルナバとサウロを選び、伝道旅行に出発させたのです。このような神のご意志を私たちはどこで聞くのでしょうか。人生を一変させるような神のご意志を知ることは滅多にないかもしれません。しかし、私たちの平凡な生活の中で、平凡な導きを神さまが与えられるとしたら、それをどこで聞くことができるのでしょうか。どのようにしたら知ることができるのでしょうか。

 近藤氏が語るように、私たちの日常の問題に対して、具体的にこうすればよい、とは聖書には書いていません。だから近藤氏が語るように聖書に養われていれば、自由自在に判断ができるわけです。

 しかし私は思うのです。私たちは案外聖書に相談しないで物事を判断して生きているのではないでしょうか。日常の出来事なら、それですませて問題を感じません。しかし私たちの平凡な日常生活の中に神さまの導きがあるとするなら、立ち止まる必要があるのではないでしょうか。つまり聖書を読みます。聖書を読んで思いめぐらし、今自分のおかれている状況や、自分の気持ちや自分が考えていることなどを振り返り、神さまのご意志、導きが何かと考えるのです。

 もし礼拝説教を聞いて、神さまが自分に語りかけてくださったと受けとめ、神の導きを感じ、その導きに従ったとします。それと同じことが日々聖書を読むときに起きると考えても不思議ではないと思いますし、それを期待するから聖書を読むことは勧められることだと思います。お務めとして日々聖書を読むのは、自己満足をもたらすだけで、そんなに意味はありません。

 私たちが当たり前のこととして当たり前に行っていることの中に、実は神さまが導こうとしていることがあると私は考えています。 

 聖霊の導きを祈り求めて聖書を思いめぐらしていくとき、神さまのご意志と思われるものが示されます。示されたことが神のご意志であることは証明できません。しかし私たちは信仰者なので信じて従います。

 ふと思いました。クリスチャンだって結構悩み事があるじゃないか。聖書を読んで思いめぐらせば、神さまは導きを与えてくださるのではないか、そう思います。聖書に相談しないから、ぐるぐる色んな思いが頭の中を駆け巡り、悩むわけですね。

 神さまのご意志、導きを聞いて生きる、ここにさいわいな信仰生活があると私は信じています。(続く)

 

f:id:holala:20200707205516j:plain

トンボは何を考えている? 散歩道で