ガラテヤ書には、霊の結ぶ実、言い換えると聖霊によって結ぶ実が紹介されています。
ガラテヤ5:22~23
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
霊の結ぶ実は「喜び」とあります。「喜び」について語っている聖句を紹介します。
フィリピ 4:4
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
テサロニケ一 5:16
いつも喜んでいなさい。
「いつも喜んでいなさい」「常に喜びなさい」。両方とも命令です。常識的には、これは無茶な命令です。普通何かいいことがあるから喜ぶのであって、年がら年中いいことがあるわけではありません。だから上の聖書の命令は無理な命令に思えます。かつて私は一日の終わりに恵みを数えて喜ぼうと思いましたが、続きませんでした。無理がありました。
聖書の命令を考える場合、何を喜ぶのかが問題です。何かいい「事」が起きたら喜ぶのであれば、聖書の命令は無茶であり、不可能です。いい「事」がいつも起こり続けるということはありえないからです。喜ぶのは「事」ではなく、「状態」です。
たとえば、私はいつも神さまとの交わりの中に生きるようにしています。だからわたしはいつも喜んでいられるし、いつも喜んでいます。神さまとの交わりに生きているという「状態」を喜ぶことができます。これならいつも喜ぶことができます。
信仰者は神さまとの交わりに生きている、だからいつも喜べるし、いつも喜びます。神さまとの交わりに生きる仕方は人それぞれだと思いますし、それでいいと思います。いつも喜んでいなさい、との命令に共感する方もおられると思います。
私自身にとって神との交わりは、聖書を読み、思いめぐらし、私の歩みに対する神さまのご意志(導き)を聞きとってそれに従う歩みをすること、そして祈りです。聖書を思いめぐらすのはとても楽しいです。聖書は深いです。この生活をわたしは喜びます。
とはいえ、つらいことや苦しいことが起きても喜べるのかという疑問はあると思います。つらいことや苦しいことは喜べないと思うし、喜ぶ必要はないと思います。自分の周りで何が起きようと、自分の身に何が起きようと、神さまとの交わりに生きているという事実(状態)に変わりはなく、このことを心喜ぶことはできます。
讃美歌520の歌詞を紹介します。
1.静けき河のきしべを
すぎゆくときにも
うきなやみの荒海を
わたりゆくおりにも(繰り返し)
こころ安し、神によりて安し2.むらがる仇(あだ)はたけりて
かこめどせむれど
いざなうものひしめきて
のぞみをくだくとも
(繰り返し)
繰り返しの「こころ安し、神によりて安し」は
英語の歌詞では、
it is well with my soul
it is well it is well with my soul
私の魂にとって、問題なし、OK!
たくさんのクリスチャンがこの讃美歌を歌っています。
「いつも喜んでいなさい」との神さまの命令に対して「喜びます」と応答し、この讃美歌を歌う、それがクリスチャンなのだと思います。
いつも喜べる、それは聖霊を働きを受けての結果、聖霊の実だと聖書は告げます。この喜びを与えてくださる神さまに感謝します。