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隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(20)聖霊を内に宿して生きる-11

  ガラテヤ書には、霊の結ぶ実、言い換えると聖霊によって結ぶ実が紹介されています。

ガラテヤ5:22~23
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

 聖霊の実は「平和」とあります。これは心が平和な状態にあることを意味します。私たちの心は、心配、不安、思い煩い、恐れなどに支配され、「平和」を得ることが困難なのが現実ではないでしょうか。しかし聖霊の実として「平和」が与えられます。

ローマ 5:1
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。

 聖書には「神との間に平和を得」ることが語られています。神との間の平和が得られる、それが私たちの「平和」の源泉です。この平和が得られるとき、苦難をも誇りとするというのです。この平和とはどういう平和なのでしょうか。問題が何もないから平和なのでしょうか。苦難をも誇るというのですから、苦難の中にあっても平和があるということですし、その苦難を喜びさえするというのです。

 「信仰によって義とされ」ることにより、神との間に平和を得ているとあります。つまり私たちの側には罪という問題があるのです。そしてイエス・キリストの十字架の死により罪のあがないがなされ、イエス・キリストを信じる者は罪を赦され、神との間に平和を得るというのです。

 罪とは、神を認めないことです。神を信じないことです。自分は何でもできると思い上がり、何でも自分の思い通りにしようとし、自分中心に生きることです。そして自分がしたことを誇りとすることです。自分を誇ることです。この通りにできる人は、自分を神のごとく思い、傲慢になります。

 普通は自分の思い通りにしようとしても自分の思い通りにならず、色々な悩みが生じます。自分よりもいい線を行っている人をみれば妬みが生じたり、悪口を言いたくなったり、焦ったりします。思い通りにできない自分を情けなく思ったり、劣等感を持ったり、あきらめの生活を送ったり、投げやりな生き方に走ったりします。神を認めない人の心にはさまざまな思いが湧いてきて、心は平安を失います。

 自分の罪を赦され、神との間に平和を得、神さまに信頼する歩みをするとき、平和が訪れます。神の御手の中で私たちは努力をし、結果を神にゆだねます。神が共におられる、神が導いてくださると信じる、その心に平和が宿ります。神との交わりに生きる人には、平和が恵みとして与えられるのです。平和と喜びは仲良しでいつも一緒に私たちのもとを訪れます。いつも喜んでいる人には平和があり、平和がある人は常に喜んでいるのです。

ロマ 8:6
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。

 肉の思いとは、神を知らない人間の思いのことです。霊の思いとは、神さまの言葉を思いめぐらす信仰者の思いです。神の言葉を思いめぐらす心には平和が宿ります。

ロマ 14:17
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

 神の国、それは神の御支配を意味します。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣べ伝えられました。あるいは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)とも語られました。神さまはご自身の御支配の中を私たちを生かしてくださいます。そこに平和と喜びがあります。

 私たちの日々の生活の中で、様々なことが起き、私たちの心は色々な感情が湧いてきます。高齢の者には、新型コロナに感染したらどうなるのだろうか、といった不安がつきまといます。私たちの心にはいくつもの感情が交じり合います。いつも平静な心を保つことができるかと言われたら、そうでないのが現実だと思います。

 しかし不安があるからといって不信仰であると考える必要はありません。感情は湧いてくるのであって、湧いてくるのを抑えつけることはできません。問題は、湧いてきたらどうするか、です。

 私たちは信仰者です。神を信じ、神の導きにゆだねる、ここに立ちます。神は万事を益としてくださる、この信仰に立ちます。そして祈ります。そうすれば、湧いてきた感情に左右されず、支配されず、私たちの心を神の(与えてくださる)平和が支配します。

 

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六月末の夕方の空