牧師になった頃、近隣の教会の年配の牧師がよく語っていた言葉です。この先生は、難治性の疾患をお持ちの先生でした。定期的に検診をなさっていました。病気がいつ再発・悪化して死に至るかわからない、そういう不安を抱えておられました。その先生が「御用のある内は召されない」と語られました。つまり神さまが用いようとされている限り召されることはないとの言葉です。心の支えになる言葉だったのだと思います。そして天寿を全うしたと言われる年齢で召されました。
この言葉を最近聞きました。ただし又聞きで、自分の属する教会を牧会していた牧師が語っていたということを聞きました。その先生はまだ壮年といえる年齢の方です。
新型コロナの感染が拡大する昨今、高齢者は重症化する恐れがあると言われる中、「御用のある内は召されない」との言葉は、魅力的に響く言葉です。自分には神さまの御用がある、だから感染しない、仮に感染しても大丈夫という安心感を得られるような気がします。
日本基督教団の機関誌『教団新報』には牧師の訃報情報が記載されています。たまに若くして召される方がいることを知ります。道半ばで召されたのは、御用がなくなったから、とは考えません。ですから「御用のある内は召されない」との言葉は真実な言葉ではないと考えます。聖書にもこのような言葉はありません。
キリスト教の歴史でも迫害の時期、信仰を貫いたゆえに亡くなった人もいるし、亡くならなかった人もいます。何が生死を分けたのかという時、御用の有無が分けたとは思いません。
でも今のような時期、自分はまだ神さまに用いられるだろうから、感染しても大丈夫と安心したい気持ちは分かります。自分の中にないとは言えません。「御用のある内は召されない」との言葉は、おまじないのような言葉です。この言葉にすがることは、一種の偶像礼拝になるのではないかと私自身は受けとめています。
私としては、健全な食生活、健康な生活を送り、免疫力を高めることが大切と考えています。あとは神さまにゆだねます。