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隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(31)罪から解放されて生きる-4

  人が罪の支配下に置かれたのは誰に責任があるのでしょうか。

 人は疑問を持つかもしれません。すべての人が罪の支配下に生きざるをえないとしたら、そして神が人を創造したのなら、神にミスがあったのではないか、と。創造において神にミスがあったから人は罪の支配下におかれてしまったと考えることができるわけです。

 そしてもし神にミスがあるなら、人が犯す罪に対して、人に責任を問うのはおかしいとなります。罪を犯さざるをえないように造った神が間違っていることになります。

 以上のような疑問が湧いてくるかもしれませんが、私は人が罪の支配下におかれているのは、神さまのせいだとは考えません。

創世記 1:31
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

 神さまが人を創造された時、人という存在は神の目に良かったのです。人は罪の支配下にあったわけではありません。神は人を造る時、人に自由を与えられました。神に似せて人に自由を与えられました。そして自由を持つ人を見て神は、よしとされたのです。喜ばれたのです。神さまにミスはありません。

 その人間がなぜ、罪の支配下におかれたのでしょうか。これは謎です。神さまは自由なお方ですが罪は犯しません。人間は自由な存在ですが罪を犯します。何が違うかと言えば、人は神ではありません。人は人なのです。被造物なのです。神ではない人が自由な者として生きると罪を犯すのです。なぜでしょうか。謎です。敢えて言えば、人は神ではないからです。人が罪を犯すことに神さまに責任はありません。

 創世記の3章に一つの答えが物語として書かれています。人間は神になりたいと願うのです。その結果罪を犯したと書かれています。神のようになりたい、言い換えると、物事を自分の思い通りにしたいという欲を人間は持つのです。さらに人間は他者からあれこれ指示されるのを嫌います。神といえども自分に指示するのを嫌うのが人間なのです。神さまは自分の思い通りに事をなすことができますし、他から指示されることもありません。

 神のようになりたいと考えるところから、あらゆる罪が生まれてきます。なぜそのような欲を持つのか、それは人が神ではないからです。人が神に似せて造られたからです。人は自由な者として神様に造られ、その人間を神はよしとしました。その人間は、神のようになりたいと考え、罪の支配下におかれてしまいました。

 私たちはイエス・キリストを通して神さまが与えてくださった救いに目を向けたいと思います。昔エジプトの国で奴隷であったイスラエルの民を神は救い、奴隷状態から解放しました。そして自由に生きることのできる土地へと神は彼らを導きました。私たちも同じです。罪から解放され自由に生きること、すなわち神さまの御心に喜んで生きることができる信仰の歩みへと救われたのです。

 

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