クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(32)罪から解放されて生きる-5

 私たちの罪認識には二種類あるのではないかと考えています。第一のものは、神さまの御心に背く行動をし、私は罪を犯したと認識するものです。

 聖書には人が自分の罪を知る印象的な場面があります。姦淫と殺人を犯したイスラエルの王ダビデ。そのダビデに対して家来のナタンがたとえ話をします。そのたとえ話は、ひどいことをした男の話です。ダビデがその男は死罪に当たると言うと、ナタンはすかさず「その男はあなたのことだ」と言うのです。そしてダビデは自分が姦淫と殺人の罪を犯したことを知ります。

 この世の人たちは神さまを知らないので、自分が罪を犯しているとは思いません。時に良心の呵責を覚え、自分の振る舞いを後悔することはありますが、罪を犯したと認識することは少ないと思います。

 私は礼拝に出るようになっても、なかなか罪がどういうことか分かりませんでした。洗礼を勧められても「罪が分かりません」というと牧師はそれ以上洗礼を勧めませんでした。

 でもある時、咳をしハンカチを口に当てました。ハンカチを口から離した時、そこに血がべったりついていたのを見て、私はドカンと自分の罪を思い知らされました。タバコはからだに良くない、と知っていてもやめられませんでした。やめられないのは仕方がないと思っていました。その時、神さまから与えられているからだを傷つけていると知らされ、血が出ているからには、自分の体に何かが起きていても不思議ではないと神さまの裁きを意識しました。私が自分の罪を認識した最初の体験です。自分は罪人であると天から啓示を受けたような体験でした。自分の罪を知るとは、神さまから直接知らされる場合だけではなく、神さまを知る中で、自分のこの行動は罪だな、と冷静に知る時もあります。

 私たちは洗礼を受けて信仰生活を始めます。礼拝で説教を聞き、自分で聖書を読む中で、自分の罪を知らされることが多くなるのではないかと思います。信仰者になり、神さまの御心を知れば知るほど自分の行動が御心に反していることに気づかされます。

 他方で真面目に礼拝生活を送り、自分の罪を克服して生きていくと自分は正しく生きているのではないかと思うようになる人もいます。私自身がそうでした。それなりに聖なる者を目指す歩みができているのではないかと思ったのです。その私はやがてもう一つの罪認識に導かれます。

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馬見丘陵公園にて