クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンは罪の中に生きることができない

クリスチャンの成長(47)キリストに結ばれて- 5

 何度も読んでいる聖書の言葉がある時、突然自己主張をするというか、聖書を読む私たちの目が釘付けになるというか、その聖書の言葉が私たちを捕らえて放さないということが、時々起きます。それが昨日起きました。昨日のブログでも引用した聖書箇所です。

ローマ 6:2
決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 

  パウロは5章20節で書きました。

5:20
律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。 

  私たちは信仰によって義とされる、恵みによって義とされるとパウロは教えました。すると恵みを受けるために罪を犯そうとパウロは教えているとの誤解が生じるかも知れません。このように非難されるかも知れないことに備え、パウロは「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と書いたのです。罪の中に生きることはできないから、恵みを得るために罪を犯そうなどという考えを持つはずがない、と主張したわけです。

 「どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」。罪の中に生きることはできないはずだ、との意味です。これは本当に重大な言葉です。パウロは、信仰者は罪の中に生きることができるはずがない、と語っています。つまり罪を犯して生きることはできるはずがないと断言しているのです。本当でしょうか。パウロはそう書き、それが聖書に記録されています。神の言葉として記録されています。

 「あなたは罪を犯すはずがない」と言われたら、どうでしょうか。「そんなことはありません。私は立派なクリスチャンではないし、時に罪を犯しています」と答えるかもしれません。しかしパウロは「罪の中に生きることはできないはずだ」というのです。非常に挑戦的な言葉です。

 この2節の言葉は、すべての信仰者に挑戦する言葉です。これまで何度もこの2節を読んできましたが、挑戦する言葉であることになかなか気づきませんでした。それはこのローマの信徒への手紙6章が理解しやすい箇所ではないことも影響していると思います。しかし私は気づきました。パウロは「罪を犯すはずがないでしょ」と私たちに語っています。そして私たちは「罪を犯すことは仕方のないこと」と考えてしまいます。パウロは書きました。

ローマ 1:16
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 福音は「救いをもたらす神の力」とパウロは書きます。福音が神の力なら、「罪を犯すことは仕方のないこと」という発言は出てきません。福音が神の力なら、「罪の中に生きることはできないはずだ」との言葉が生まれても当然と考えることができます。

 私たちが罪に死んだのなら、「罪の中に生きることはできない」のです。「罪に死んだ」とはどういうことなのでしょうか。

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早朝の奈良公園。向こうに見えるのは東大寺。