(クリスチャンの成長(51)キリストに結ばれて- 9)
ローマ 6:2
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
この聖句は驚くべき内容を持っています。罪に対して死んだ私たちは、罪の中に生きることはできない、と明確に述べているからです。私たちはもう罪を犯して生きることはできないとの意味です。そこで「罪に対して死んだ」ということがどのような意味を持っているのかを今、探っています。以下の三点を聖書から確認しました。
- ギリシャ人もユダヤ人もみな罪の下にあること
- 罪の下にあるとは罪の領域・領土に生きていること
- 罪は力であって、私たちが罪を犯すように働きかけること
以上のことは、人間が罪の支配下に置かれ、罪の奴隷であることを語っています。罪という主人に仕え、罪を犯して生きているとの意味です。奴隷という言葉はきつい表現であり、自分にこの言葉を当てはめることにためらいを覚えるかもしれません。神さまの前に正直になることが大切だと思います。
罪の奴隷とはどういうことなのでしょうか。
ガラテヤ 5:21
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
たとえば、上に掲げたような事柄に関わる罪をやめることができない状態、それが罪の奴隷ということです。
私自身の経験から言うと、私は若いときタバコの奴隷でした。喫煙がからだによくないと知りながら、やめることができませんでした。やめたくてもやめられないのです。自分の力ではどうにもなりません。まさに奴隷です。
劣等感にも悩みました。劣等感から解放されたいと願いました。どうしたらいいのかもがきました。自力で解決できません。劣等感の奴隷ということもできます。
ある人は人を赦せないという思いに囚われています。これも奴隷状態です。心が自由になれないのですから。敵意、憎しみに囚われている人も多いのではないでしょうか。
行動において、思いにおいて囚われている状態があるなら、それが好ましくなく解決したいと思いながら自分の力で解決できないのなら、それは罪の奴隷状態にあると言えます。そういえば聖書には、「死の恐怖のために一生涯、奴隷」という言葉もありました(ヘブル2:15)。これもまさしく罪がもたらすものです。
私たちは、神を知る前は、罪を犯しながら生きていました。罪とは神の戒めに背き、神の心を重んじないことですから、人は神を知る前は、知らずして罪を犯しています。
教会へ行き、また聖書を読むようになって、神の戒めを知るようになり、神がどのようなお方かをだんだんと知るようになります。すると自分が罪を犯していることを知るようになります。最初は頭で「私は罪を犯している」ことになるんだなと思います。やがていつの日か、「私って罪を犯していたんだ」と心から自覚するときが与えられます。それは洗礼を受ける前のこともあり、洗礼を受けた後のこともあると思います。
やがて洗礼を受け、信仰者として歩もうとします。説教を聞き、聖書を読み、神さまの御心を知るにつけ、自分の罪を新たに知らされます。罪の赦しを受けることはできても、罪を克服できず、自分が罪の奴隷であることを知るようになります。自分の罪に悩みます。
イエス・キリストの死は、罪を贖うための死でありました。でもそれだけではありません。<罪に対して死ぬ>死でした。ここから罪の奴隷からの解放というすばらしい救いが導かれるのです。