クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私は罪から解放された(3)

(クリスチャンの成長(63)キリストに結ばれて- 21)

 今回考えるのは、人との関わりにおける罪からの解放です。人との関わりにおける罪も、さまざまな罪があります。色々な罪があると思います。そこで今回も私が体験したことを証しとして書くことにします。
 罪からの解放という時、それは同じ罪を繰り返すことからの解放と考えます。ある罪を繰り返すことをしなくなる、それがその罪からの解放となります。その上で大事なことは

  • その罪からの解放を心から願うこと
  • どのように克服するか、聖書から導きを受けること
  • それを実践すること

 私が牧師になってからのことです。人を批判的に見る癖がつきました。牧師は教会の伝道を使命とします。ひとりで伝道はできません。教会員の方たちとの協力が欠かせません。完成された人間はいませんから、だれもが行動において足りない点があります。その点が目につくのです。もちろん自分に足りない点にも気づきます。共にキリストの教会の形成のために仕えています。力を合わせられればと思いますが、必ずしも心ひとつにして力を合わせることができるとは限りません。あの人がこうであれば、この人がかくあればと他者に対して批判の目を向けるのです。

 他者を批判的に見るという発想が身についているのです。心に湧いてくる思いがこれなのです。長老のAさんが教会員のBさんの批判を私に語ることがありました。用事があって彼女と二人だけの時、批判を聞くことが2,3回ありました。それで私はAさんに「Bさんのために祈りましょう」と話しました。それ以来Aさんが私にBさんの批判を語ることはなくなりました。その「祈りましょう」の言葉は、自分への言葉となりました。批判的な思いが湧いてきたら、その人のために祈る、そのことを繰り返す中で、批判的な思いが出てくることは少なくなりました。もし出てきたら祈ります。赦しなさい、思いやりを持ちなさい、寛容になりなさいなどの聖書の言葉が浮かんできます。

 また問題を抱えて教会に相談にくる方がいます。サマリア人のたとえのように、けがをして倒れている人を見過ごしにはできません。だからといって関われば解決するとは限りません。自分が役に立つ働きができないと知るのはつらいです。いつしか、問題をもった人が教会に来て、その人と関わることの恐れが心の片隅に宿りました。精神的な病いを持った人の話を何時間も聞いたことがあります。

 このような経験の繰り返しの中で、「何とかしてあげたい」と思っても、自分にできることには限界があることを認め、限界の中で関わることを学びました。時間的にも経済的にもここまでと割り切ることの必要を学びました。自分の力で何とかしてあげたいとの思いは善意から出たものであっても、傲慢があるのだと思いました。

 自分の力には限界があり、限界を超えることについては神さまにゆだね、励まし祈ることでよいと思うようになりました。傲慢の罪が自分を苦しめていたのです。

マタイ 11:28~30
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 色んな経験を積み重ねた末に聖書に書いてあることは本当だとの結論に至りました。今は聖書の言葉によって物事に対処するようになりました。聖書の言葉がある、これが平安の根源です。聖書の言葉が私を解放してくれます。

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ダリア 私を洗ってください。雪より白くなるように