(クリスチャンの成長(64)キリストに結ばれて- 22)
私が解放された罪について紹介しました。大きな罪ではなく、ささやかなものかもしれません。それがどんな罪であれ、私たちを支配していると、私たちは閉じ込められた状態になります。その結果、先に進めなくなります。
その先にあるのは、キリスト者の自由によって生きることです。
ガラテヤ 5:13
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
自由にされたので愛によって互いに仕え合うことができ、そうするようにパウロは勧めています。キリスト者として生きるとは、自由な人間として生きるということです。
ローマ12:1
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
自由にされると自分自身を神さまに献(ささ)げることができます。それが喜びとなります。献身とは、自由にされたからできることです。喜んで神に仕え、人に仕えることができるようになります。
この自由に生きることができる、それが福音だと私は考えます。罪がもたらすさまざまな捕らわれからの自由を与える、それが福音です。罪の赦しだけが福音ではありません。
ヨハネ 8:31~32
わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。
救いとは自由を得ることです。キリスト者が苦しむ「罪からくる捕らわれ」は、人それぞれだと思います。捕らわれから解放された体験を分かち合うことは、同じ捕らわれの中にいる人の救いにつながります。このような分かち合いが行われる教会は、自由があふれ、元気な教会になり、教会に集まる人が増えていくと私は信じています。