クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私は律法から解放された(1)

(クリスチャンの成長(65)キリストに結ばれて- 23)

ローマ 7:4~6
ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。・・・・しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。

 パウロは、ローマの信徒への手紙6章で、洗礼を受けキリストに結ばれたキリスト者は、罪に対して死に、罪から解放されたと語りました。7章では、キリスト者は律法に対して死に、律法から解放されていますと語ります。

 律法、それは神がイスラエルの民に与えられた戒めの集合です。エジプトでの奴隷状態から解放されたイスラエルの民に神が与えられた戒めの集合を律法を呼びました。律法は本来、神の民が守るべきものとして与えられました。律法、それは神の戒めです。

 キリストに結ばれたキリスト者は律法に対して死んだとあります。死んだ者に対して、律法を守りなさいと言っても、それは意味がありません。死者には守りなさいという声は聞こえません。死んでいるのですから、行動できません。

 また律法を守らなかったからといって、神の怒りが臨むわけでもありません。罪を犯したとき、神の裁きとしてあるいは神の怒りを受けて人が死ぬことがありますが、すでに死んでいる人に裁きを与えることはできません。もう死んでいるのですから。

 律法は死んだ人には「守りなさい」と言うことはできないし、言ったとしても、死者には聞こえませんから、守りなさいという命令は意味がありません。同様に、守らなければ神の裁きが下る、神の怒りが降ると言っても、死者には何の影響も与えることはできません。死んでいる人を裁きによって死に至らしめることはできません。

 キリストに結ばれたキリスト者は律法に対して死にました。言い換えるとキリスト者は、神の戒めを守る義務がありません。死んでいるのですから「守りなさい」という命令は聞こえないからです。また律法を守らないことによる神の裁き、怒りを恐れる必要はありません。もう死んでいるのですから。死んでいる人に死刑に処すと言っても意味がありません。つまり、キリスト者は律法を守らないからといって、神の裁きがくると考える必要はないというのです。キリスト者は律法から解放されているのです。

 そもそもキリストを通して与えられる救いは、どのようにして得られるかというと、律法の行いによって得られるものではありません。律法を行い立派な人に救いが与えられるというものではありません。救いはイエス・キリストを信じることによって与えられます。イエス・キリストを信じれば救いは与えられるのであって、律法を守るとか守らないとか、それは救いとは関係がないのです。

 あなたは律法を守らず罪を犯しているから救われないということもできません。イエス・キリストによる救いは、ただイエス・キリストを信じることによって与えられる救いであり、信じる者は義とされ、罪を責められることはありません。どんなに罪を犯した人でもイエス・キリストを信じる人は救われます。

 キリスト者は律法を守らなければならないと考える必要はないのです。守らないから罰せられると考える必要もないのです。キリスト者は律法から解放されているのです。「~しなければならない」と私たちを縛る律法からキリスト者は自由になったのです。

キリスト者は何と自由なことでしょうか!

 キリスト者でない人たちも案外「~しなければならない」という縛りの中で生きているのではないでしょうか。幸せになるためには、人生で成功するためには、「~しなければならない」と考えます。そして人々は努力しますが、うまく行かなかったり、案外疲れたりして、目標に達しないことはしばしばです。「納得できる人生を送っている人なんかいません」と先日見た映画で主人公が語っていました。

 私もかつて牧師としてその務めを果たすためには、いくつもの「~しなければならない」を抱えて苦しかったことを思い出します。

 

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馬見丘陵公園にて