(クリスチャンの成長(66)キリストに結ばれて- 24)
ローマ 7:4~6
ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。・・・・しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。
聖書はキリストに結ばれた信仰者、つまりキリスト者は律法から解放されたと告げます。キリスト者はもはや律法の下にはいないのです。キリスト者は律法を守る必要はないし、律法を守らなかったからといって責められることもありません。
キリストの福音は、私たちが律法からも解放されていると告げます。なぜ律法からの解放が福音となるのでしょうか。律法からの解放は何を目指しているのでしょうか。律法からの解放は律法の成就、つまり律法の要求を満たすことを目指しています。
マタ 5:17
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
「神さまの教えは守らなければならない」と言いながら、しかも「私は神さまの教えを守ることができていない」と考え、キリスト者であることを心から喜べていない人がおられます。そのような人に私は次のように言います。
「なぜ神の教えを守らなければならないと考えるのですか。信仰によって救われるのだから、神の教えを守らなければならないと考える必要はないと思いますが。神の教えを守らなくてもいいのです。あなたは律法から解放されているんです」。
その人は言います。
「そうでした。私たちは信仰によって救われるのでした。それなら神の戒めを守らなければならないなんて考える必要はありませんね。私は自由なんですね。あゝうれしい!」。
これを聞くと私は
「イエス・キリストを信じる人、キリスト者が神の戒めを守らないんですか。キリスト者が神の教えに従わないなんて考えられません」。
すると
「じゃあ、やっぱり、神さまの教えを守らなければいけないんですね」。
私は
「なぜ守らなければならないと考えるのですか。私たちは信仰によって救われているのに」。
また振り出しに戻ってしまいます。
多くのキリスト者はイエス・キリストへの信仰によって救われると信じています。そして信仰者なのだから、神さまの教えは守るべきだ、守らなければいけないと考えます。しかし守れない自分を見いだし、キリスト者であることを喜べていないのです。どこか後ろめたさを覚えるのです。そして、こんな私も神さまの憐れみにより赦されている、感謝です、というところで落ち着いてしまいます。
でも何か変です。信仰者なら、神さまの律法(戒め)を守るのが自然です。守って当然です。そしてキリスト者とされたことを心から喜びます。
ここで大切なことは、なぜ神の律法に従うのか、なぜ神の教えを守るのか、その動機です。もし救いが目的なら、律法に従う必要はありません。信仰によって救われるのですから。それでは私たちは神の律法、戒めとどう向き合ったらよいのでしょうか。