クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神を愛するようになる(2)

(クリスチャンの成長(70)キリストに結ばれて- 28)

 私にとって神を愛するとは、神の御心を大切にすることです。私が神を愛するようになった時間的な経緯はもう覚えていません。私が神を愛するようになった三つのきっかけがあるように思います。

 第一のきっかけは、信仰とは神との交わりに生きることと知ったことです。信仰は神との交わりに生きることであることは聖書に書かれています。

コリント一 1:9
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

ヨハネ一 1:3
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

 これらの聖句を読んだからといって、信仰に生きるとは神との交わりに生きることであると悟ることは簡単ではないと思います。実際、私は悟れませんでした。悟るようになったきっかけはある罪の自覚です。

 罪というとそれは神の戒め、掟を破る行為と私たちは考えます。クリスチャンは自分の犯した具体的な罪を思い浮かべることができるでしょう。しかし具体的な悪しき行為よりももっと深い罪、悪質な罪があると知りました。つまり神さまのみ心に無関心であることです。

 どんなに熱心に祈って、それが「神さま、私に関心を持って」という願いである限り、つまりあれをかなえてこれをかなえて、~してくれて感謝します、という祈りは、自分に関心がある祈りであり、神の御心に関心がある祈りではありません。つまり信仰者であっても、神の御心には無関心であるということです。

 私はかつて小さな嘘をついたとき、天から啓示を受けたかのごとく自分の罪を思わされ、自分は頭のてっぺんから足のつま先に至るまで罪にまみれていると思ったことがあります。しかししばらくすると、自分は信仰者としてよくやっているのではないかと考えるようになり、自分はあまり罪を犯さずに生きているように思う日々を過ごしました。

 ある時、信仰とは神との交わりに生きることであり、交わりに生きるなら、神さまのみ心に無関心であることは最大の罪であると悟りました。結婚は人が交わりに生きることを学ぶ訓練の場です。もし自分が伴侶の心に無関心でいたら、伴侶はどう思うのでしょうか。夫婦が互いに愛し合うという時、それは相手の心を互いに大切にして生きるということです。

 教会で結婚式を頼まれたとき、聖書が教える結婚について学びをしました。神さまの前で結婚式を挙げるなら、結婚について聖書がどう教えているかを学んで欲しかったからです。学びをするときは妻に同伴してもらい、私たちの経験を話しました。私自身、結婚したときは聖書が結婚について教えていることには無知でした。しかし聖書から「愛する」ことを学ぶにつれて、結婚において伴侶の心を大切にすることが愛であることを知り、妻の心を大切にするように心がけました。

 信仰者として神との交わりに生きるなら、神さまのみ心を大切にすることは自然というか当然であると考えるようになりました。その時、自分は信仰者としてまた牧師として生きていましたが、神さまのみ心に無関心でいたことを知り、自分の罪深さを思わされました。神について語り、考え、信仰者として行動していましたが、心の深いところでは神のみ心には無関心でいたのです。信仰者としての自分、牧師としての自分が、関心の対象だったのです。これに気づいたとき自分の罪深さを知りました。

 そこから神さまのみ心を大切にする歩みが始まりました。神の戒め、掟は、私たちを祝福するために神さまが私たちに与えてくださったことを悟り、神さまのみ心には喜んで従うようにしました。神さまのあの戒めは「むずかしいよね、無理だよね」などという言葉は一切口にしません。なぜならそう言うことは、神さまはむずかしい戒めを与えていると神さまを非難することになりますから。

 神さまのみ心に無関心という罪を知り、信仰とは神さまとの交わりに生きることであると悟ったときから、神さまを愛する努力、神さまのみ心に従う努力をするようになりました。

 神を愛するといっても特別な感情を抱くこととは考えません。神を信頼し、神のみ心を大切にし、神に従うことが神を愛することだと考えています。

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