クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

出発はアイデンティティー

 キリスト者のアイデンティティーに立つとどうなるのでしょうか。

 たとえば信仰によってキリスト者は義とされています。キリスト者はたといどんなに罪を犯したとしても神の前に義とされた人間です。罪を犯したとき、それに気づけば罪を告白し神に赦しを求めます。キリスト者のアイデンティティーは「罪人」ではなく「義人」です。神さまはキリスト者を義人と見てくださいます。義人と見なされるならいくら罪を犯しても構わないとはもちろん考えません。むしろ実質的に「義人」になろうと努力します。名実共に「義人」になることを目指します。

 地上の歩みにおいて絶対に罪を犯さない人間に私たちはなれません。でも私たちキリスト者は自分は「罪人」といって罪に打ち勝つ努力をしない信仰者にはなりません。罪に勝利できませんとあきらめません。キリスト者は罪に打ち勝つようにされているからです。ですから少しでも罪に勝利する歩みを目指します。ここにキリスト者としての成長があります。

 私たちは洗礼を受けキリストに結ばれて「神の子」とされています。「神の子」、これもキリスト者のアイデンティティーです。そこで私たちは神の子とされていることを喜びます。神さまは私たちを神の子と見てくださいます。たとい自分の目から見て私が神の子と思えなくとも、神さまが私を神の子と見てくださるゆえに、私は自分が神の子であると考えます。信じます。神の子というキリスト者のアイデンティティーに立ちます。すると私は自分が神の子なら、天の父の御心を喜び、これに従おうとするのが自然ではないか、と考えます。そうなりたいと願います。神の子であると信じ、父の御心を喜ばないことは矛盾しています。その時はさらに神の子とされていることを喜べるように祈ります。
 「北風と太陽」の童話があります。北風と太陽がどちらが強いか、争います。それで旅人のマントを脱がせようとする物語です。そこで思います。律法を守れ、守れと北風が風を吹かせても、信仰者は心を閉ざし律法を守ろうとはしません。しかし太陽の暖かい日射しが旅人を暖めてマントを脱がせるように、神さまの恵みは信仰者の心を開かせ律法を守るように導きます。だから神の子とされた恵みを覚え、感謝します。そうすれば自ずと神さまの教えに従うようになり、神の子として成長し、神の子らしくなっていきます。

 信仰者は罪から解放されています。罪から解放されている、それもキリスト者のアイデンティティーです。それは罪を犯さない人間になったことを意味するのではなく、罪に打ち勝つ者とされたことを意味します。しかも罪に打ち勝つ力を自分の中に持つわけではなく、神の恵みによって罪に打ち勝つように導かれるのです。それは聖霊の導きと言えます。ですからキリスト者は神の助けを頼み、罪に打ち勝つ努力をします。罪には勝てないとあきらめることはしません。どうせ自分は罪人だからとも考えません。イエス様を死者の中からよみがえらせた絶大な力が私たちを助けるなら、罪に勝利させてくださることは間違いありません。

 このようにキリスト者のアイデンティティーに立つことから信仰者の歩み、信仰者の成長が始まります。そしてそこには罪との戦いがあります。罪に勝利するとは、戦って勝利するということです。罪に打ち勝つことができたとき、大きな喜びが与えられます。キリスト者としての自分を喜べるようになります。感謝なことです。

 大雑把な文章ですが、キリスト者のアイデンティティーに立つことが信仰者としての成長の出発点であることが分かっていただけたらうれしいです。

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