クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

福音の響き

 先日テレビで『うつ病九段』というドラマを見ました。実在の将棋の棋士の物語です。私は日曜日NHKの将棋と囲碁の対局の番組を見ているので、この棋士は知っています。もちろん録画したのを見ます。彼はうつ病になり、その時の体験を本にまとめました。それが今回ドラマ化されたのです。

 うつ病で入院した彼には、世界はモノクロに見えていたようです。ある時、病院の窓から花火を見ていた時、花火がモノクロからカラーに変わり世界に色があると気づきます。その時から回復に向かっていきます。

  彼の妻が、夫が「美しい手」を指すのを見たいと語る場面があります。彼女は夫が美しい手について自分に説明する場面を回想します。棋士が言う「手」ですから、人間の手ではなく、将棋でさす手を意味します。いい手を指せば勝ちますし、まずい手を指せば負けます。勝負の世界は厳しいもので、ぬるい手を指せば負けます。最善を尽くして尽くしてそれで勝負になります。互いに最善を尽くすわけですから、何が勝敗を分けるのかは分かりません。もちろん実力が勝負を決めますが、実力伯仲の世界の中で生き抜くのですから大変です。

 その美しい手とは何でしょうか。自分が負けそうな局面、必敗の場面で、一筋の光が突然見えてきます。「盤上この一手」というさし手です。これ以外では負けますが起死回生の一手に気づくのです。10手先、あるいは20手先に自分が勝利する、そういうさし手が見つかるのです。それを「美しい手」とこの棋士は語ります。トップ棋士でもそのような美しい手をさせるのは一年に一回あるかないかだ、と誇らしげに妻に説明していました。

 そして思うのです。私は棋士ではなく牧師でした。今は説教の務めから退いています。棋士にとっての美しい手は牧師にとっては何か、と思いました。それは「福音が響く」説教ではないかと思いました。

 将棋とちがって説教の場合、福音が響くのを聞くのは聞き手です。説教者は語るだけです。自分の説教に福音の響きがあるのかどうか、どうしたらわかるのでしょうか。説教者は福音の響きそのものを聞くことはできません。でも分かる時があるのです。説教後の讃美歌です。福音が響くのを聞いた会衆が大きな声で賛美するのです。福音の響きを聞いて、感謝し喜んで賛美しているんだなと分かります。自分も大きな声で賛美して喜びを共有します。うれしい体験です。

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