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隠退牧師 holala によるブログ

律法を利用する「罪」

 私たち人間の生まれながらの性質を聖書は「肉」と呼んでいます。ガラテヤ書には、この性質から生まれてくる行動が紹介されています。

ガラテヤ 5:19~20
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

 私自身を顧みつつ現代人の持つ肉としては「自己中心、他者への無関心、ごまかし、保身、高慢、誇り(プライド)、嘘、悪口、非難、自己顕示欲、無責任、差別、権力欲、名誉欲、ぜいたく、さまざまな貪欲など」があると思います。

 信仰を持たない人たちは、自分がこのような肉の性質に従って生きていても何とも思いません。なぜならそれが「人間」だと思うからです。そして他の人たちも自分と同じように生きているからです。もちろん、これらの肉の性質を抑制して品位を保つように努力している人たちもいます。でもどのような人にも自分の弱点となる肉の性質があります。それが分かるのはキリスト者になってからです。

 キリスト者になると私たちは聖書から神の教え、神の戒めを知るようになります。聖書はこれを「律法」と呼びます。そして罪とは律法を破ることと知ります。そこで問題となるのは、律法を知った私たちに罪を犯すよう働きかける力があることです。

ローマ 7:7~8
律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。 

  「律法によらなければ、私は罪を知らなかったとは」、神の教えを知らない人は自分の罪に気づくことはないとの意味です。神の教えを知らないのですから、神の教えを破ったという罪の自覚は生まれません。自分の罪を知ることはありません。神に似せて造られた人間には良心があり、人は自分の行いに対して良心の呵責を覚えることはあります。

 生まれながらの人は、むさぼりに生きていたとしてもむさぼりという罪を犯しているとは考えません。たとえば泥酔をして道端で寝てしまってもむさぼりの罪を犯しているとは考えません。「飲み過ぎちゃって醜態をさらしたよ」と言うかも知れませんが、むさぼりの罪を犯したとは考えないでしょう。

 私たちが神の教えを知ると、それに従いたくないとの思いが湧いてくる時があります。それは罪の働きだと聖書は教えます。ここでの罪は、私たちに罪を犯させようとする「力・勢力」を意味しています。悪魔と言い換えても構いませんが、パウロは、私たちに罪を犯させようとする「力」としての「罪」を考えています。

 アダムとエバが神に禁じられた実を食べた物語は、蛇との会話によって「食べてみたい」との思いがエバの心に生じたことを語っています。蛇は食べても死なない、食べたら神のように賢くなると語り、エバの心に食べたいとの思いを募らせたのです。

 「罪は掟によって機会を得」とありますが、私たちは神の教えを知るとそれに従いたくないとの思いが時に、湧いてきます。私たちの肉に「罪」が働きかけたのです。「罪」が機会を得たのです。「罪」はあらゆるむさぼりをわたしの内に起こしました、とあります。私たち人間にはさまざまな欲があり、それを満たしたいという思いがあります。これは肉の性質です。「罪」は、この肉の性質を利用して、むさぼりを起こさせるのです。

 「姦淫、わいせつ、好色、泥酔、酒宴」は快楽をむさぼる罪です。「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」などは自分は人より上に立ちたいとの欲から生まれるもので自分の正当性をむさぼるものと言えます。

 神の教えに従いたくないとの思いが心に湧いた時、そこには何らかのむさぼりがあります。「罪」がそこをつけ狙い、私たちに罪を犯させます。

 そこで思います。私たちは自分が罪深いから罪を犯すのではなく、このような「罪」の働きかけに従ってしまう時、私たちは罪を犯すのです。理屈としては、キリスト者は神の教え、戒めを知っていますから、「罪」の働きかけに対して抵抗することができるはずです。しかしこの「罪」の働きかけに負けてしまうのが私たちの現実だったのです。この現実はキリストによって打ち破られました。

 

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