クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

わたしはなんとみじめな人間なのでしょう

 霊の導きに従おうとしても肉の力が強くて、自分のしたいことができない時、私たちの口から出る言葉は「わたしはなんとみじめな人間なのでしょう」です。この言葉は使徒パウロが書いている言葉です。パウロはこのように書いています。

ローマ 7:15
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。

 自分が望むこととは神の教えに従うことです。わたしは聖霊の導きによって神の教えに従おうとしているのです。しかしわたしは憎んでいることをするというのです。つまり神の教えに従わない行動をしているというのです。

 わたしの心は戦場なのです。聖霊の導きによって神の教えに従おうとします。しかし私たちに罪を犯させようとする勢力・力としての「罪」が肉を通してわたしに働きかけます。どちらが勝つのか、これは戦いです。キリスト者がこの戦いに直面すると最初は負けることが多いのです。

 色々な誘惑があります。この誘惑には負けないぞ、と思っても誘惑に負けることがあります。また神の教えとして「○○しなさい」と教えられても「いやだな、抵抗を感じるな」と言って、結局神の教えに従わないことがあります。そうした時、私たちはしばしば自己弁護します。自分の非を認めたくないのです。もし私たちが神の御心に従えない時、弁解して「御心に従えない」事実と向き合わなければ、私たちは自分の罪に目をふさいで生きることになります。この戦いで自分の罪を認めることはつらいものです。また御心に従えない自分と向き合って生きるというのもつらいものです。

 パウロは驚くべきことを告げます。

ローマ 7:17
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 自分が神の教えに従えない時、わたしの中に住んでいる罪が、そうさせているというのです。さらに18節以下21節まで

ローマ 7:18~21

わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

 善を行う意志が私にはありますが、それを実行できず、望まない悪を起こっている、それは私の中に住んでいる罪のせいだというのです。「いつも悪が付きまとっているという法則」があるいうのです。これは私たちに罪を犯させようとする勢力・力として罪が私たちに働きかけていることを意味していると考えます。

ローマ 7:22~24
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

「内なる人」とは人格としての「私」です。「私」は神の教えを喜び、神の教えに従いたいと考えています。これは聖霊の導きです。これをパウロは心の法則と言っています。そして私たちの肉を手がかりとして私たちに罪を犯させようとする「罪」があり、「罪」が私たちに働きかけることを「罪の法則」と呼びます。そして罪が勝利するので「わたしはなんとみじめな人間なのでしょう」との告白になります。

 神の教えに従って生きようとするキリスト者の心は戦場です。キリスト者である「私」は聖霊の導きを得て神の教えに従おうとします。善を行おうとします。しかし「罪」は肉を通して働きかけ、肉に従うように「私」を攻撃するのです。そして「私」は敗北します。わたしはなんとみじめな人間なのでしょうと告白します。これは誠実なキリスト者の深刻な告白です。

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