クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の教え・戒めの受けとめ方

 詩編を読むと、神の教えに従うことは幸いであると告白する言葉に出会います。

詩編1:1~2
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。

詩編119:1~2
いかに幸いなことでしょう
まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
いかに幸いなことでしょう
主の定めを守り
心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 

  詩編119編には神の教えを「楽しみとし」「喜び」「愛し」「慕い求める」と告白する言葉に出会います。

119:16
わたしはあなたの掟を楽しみとし/御言葉を決して忘れません。

119:14
どのような財宝よりも/あなたの定めに従う道を喜びとしますように。

119:127
それゆえ、金にまさり純金にまさって/わたしはあなたの戒めを愛します。

119:131
わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。

  なぜ、神の教えをこのように受けとめることができるのか、驚きを覚えます。というのは、このような告白を私は実際に聞いたことがないし、私もしたことがないからです。詩編の信仰者と私たちと何が違うのか、と思います。

 イエス様はある時、言われました。

マタイ 5:21~22
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

マタイ 5:27~28
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 イエス様は旧約にある神の教えを深めて解釈されました。すると私たちは守ることがむずかしいと感じ、単純に神さまの教えを楽しみにするとか、喜びとするとか、まして愛し、慕い求めるなどとは到底言えなくなると考える人もいることと思います。

 イエス・キリストを信じる私たちは、神さまの教えを喜び、楽しみ、愛し、慕い求めることはできるのでしょうか。私たちは神さまを信じ、その教えに従うことを求められます。そして従おうとします。

 新約聖書には神の教えを熱心に守ろうとしていた人たちとして律法学者とかファリサイ派と呼ばれる人たちが登場します。彼らは神さまの教えを守ることに熱心だったかもしれませんが、イエス様からは偽善者と批判されました。

 彼らが偽善者と批判されたとき問題となったことは彼らが、教えを与えた神さまの心に目を向けず、教えに目を向け、これを守ろうとしたからではないかと私は考えます。彼らは神さまの心ではなく、教えに向き合ったのです。教えの背後にある神さまの御心には心を向けなかった、それが問題だったのではないかと思います。

 「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩編1編)。この人は神さまを愛していたので、神さまの教えを愛し、昼も夜も口ずさんでいたのではないでしょうか。神さまを喜ぶから、神さまの教えを喜び、楽しみとしたのではないでしょうか。

 人生の主な目的は「神を知ることです」とジュネーブ教会信仰問答は教えます。私たちは神をどのような方として知るのか、それは神さまの教えをどのように受けとめるのかと深く結びついているように思います。

 もし神は悪いことをしたら罰する神であると考えたら、神の教えをどう受けとめるでしょうか。

 

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去年咲いていた場所で今年も プリムラ・シネンシス(多分)