クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の教え・戒めの受けとめ方

 私は信仰に入った時、聖書に書かれている神の教え・戒めは、信仰者なら守るべきだと考えました。神を信じる者が神の教えに従うのは当然と考えました。そして教えの中には、守るのがむずかしいものもあって当然と思いました。どれも簡単に守れるなら、それは神の教えではありません。むずかしいものがあるから、そこに信仰者として修行、チャレンジする課題があることになります。

 そして牧師になりました。「神さまの教えって守るのむずかしいよね」「この教えは守るのが無理よね、不可能よね」という言葉を何度も聞きました。私自身も守るのがむずかしいと思える戒めもありましたが、「むずかしい、無理」ということは口が裂けても言いませんでした。もし口に出したら、その戒めを守ることができなくなると思ったからです。

 ある時から考えが変わりました。神の戒めは何のためにあるのか、と考えました。

 神さまは信仰者に、信仰者らしく生きるために戒めを与え、守るように指示されたのでしょうか。学校には校則があり生徒は守ることを求められます。その学校の生徒としてふさわしく振る舞うことが求められました。もし信仰者が信仰者らしく振る舞うために神の戒めがあるとしたら、もしこれを破ったら信仰者らしくないことになります。すると自分は神さまには喜ばれない信仰者になってしまいます。すると神の教え・戒めを守ってこそ、神さまの祝福を得られると考えるようになります。神さまの祝福を受けるためには教えを守ることが必要となります。

 イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放した神は彼らに十戒を与えられました。それは何故でしょうか。それは、彼らが幸いな歩みをするためだと私は思います。神さまの教え、戒めは、それを守ることの中に幸いがあるのです。神の教えを守ったらご褒美として祝福を与えられるのではなく、教えを守ること、それ自体の中に祝福があるのです。私はこのように考えるようになりました。あくまでも神さまは私たちに幸いを与えるお方なのです。

 神さまの教え・戒めは、神さまが私たちを祝福する手段なのです。このように考えた時から、私は神の教えを守らなければならないという思いから解放されました。

 私たちはイエス・キリストを信じ、永遠の命を与えられました。神の国に迎えられる約束を与えられています。誤解を恐れずに言うなら、神の教えがむずかしいなら、守らなくてもいいのです。守らなくても永遠の命を失うことはありません。私たちが救われるのはイエス・キリストを信じるからです。自分の行いによるのではないからです。神の教えを守らないなら、それを守ることに伴う祝福を失うのです。私はこの祝福を失いたくないです。祝福を備えてくださる神さまに感謝し、祝福を求めます。

 そして神さまの教えが祝福をもたらすなら、どうしてその教えが祝福につながるのか、神の教えを思いめぐらすことは楽しくなり、喜びとなっていきます。そして神さまの教えに従い幸いに導かれる時、喜びと感謝があふれます。「いつも喜んでいなさい」との命令は、いつも神さまの教えを喜び、これに従うことを喜びとしなさいとの教えだと私は考えています。それは詩編にも書かれていることですね。

詩編1編1~2節
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。

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