クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

子と父と若者

信仰者の成長について、興味深い記述がヨハネの手紙一 2章にあります。

ヨハネ一 2:12~13
子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。

 ここには三つの呼びかけがあります。「子たちよ」。「父たちよ」「若者たちよ」。これは信仰者の成長段階を表現していると考えることができます。

 「子たちよ」。「子」は信仰者の成長段階として初期の段階、信仰に入って間もないキリスト者を指していると考えることができます。この段階の人は、自分がイエス様によって罪が赦されていることを知っています。人はイエスの名により洗礼を受け、キリストに結ばれ、罪が赦されます。そして永遠の命を与えられていることを信じ、信仰生活を始めます。信仰生活を始めた人たちが「子」と呼ばれています。漠然と信仰生活を続けていれば、長い信仰生活をしていても「子」の状態にある人はいます。

 「若者たちよ」。若者は力にあふれているというイメージがあります。若者は「悪い者に打ち勝った」とあります。「悪い者」とは、私たちに働きかけ、私たちに罪を犯させようとする力、勢力を意味します。聖書では、「悪魔」とか「サタン」とか呼ばれている存在です。パウロは「罪」を擬人的に考え、私たちに罪を犯すよう働きかける力として描いています。

 現代人は、悪魔とかサタンという存在をなかなか信じないと思います。絵に描いたような悪魔が存在するわけではなく、私たちに罪を犯させようと働きかける「力」があるということです。これに対応して、私たちに神の御心を行うように働きかける「力」があり、これを聖霊の働きと聖書は教えています。

ローマ 7:15~17
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 若者は、悪い者に打ち勝ち、罪を克服していきます。「子」は若者に成長していくのです。

ヤコブ 4:7
だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。

 若者はみ言葉に従おうとします。み言葉に従うと告白し悪魔に抵抗するなら、悪魔は逃げていきます。これは成長した力強いキリスト者です。悪魔と戦う人は、武器を持つと聖書は教えています。

エフェソ 6:13~17
神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

 キリスト者には、悪魔に対して戦う武器があることを聖書は告げています。

ヘブル 12:4
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

 罪と戦い罪に勝利したのが「若者たち」です。私たちが罪に勝利できるのは、自分の力によるのではなく、「罪と戦う」との決断と神の恵みによってです。この神の恵み、救いの恵みを受けて罪に勝利するのが「若者」だというのです。これは霊的な成長を意味しているのであり、肉体的な年齢と連動しているわけではありません。肉体的には老いたキリスト者でも、「若者」のような信仰者もいます。

 キリストを信じて生きるとは、罪に勝利して生きることであると聖書は語っています。

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春を告げる花 オオイヌノフグリ