クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信仰者の衣替え

ヨハネ一 2:14
子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。

 ヨハネの手紙には、信仰者の成長の段階として、子供、若者、父があること、そしてそれぞれの特徴を述べています。若者を目指すためには、信仰者の衣替えが必要なのではないかと考えます。子供が若者になれば、体の大きさが違いますから、衣替えというよりはサイズの大きな服を身につけることになります。ここでは信仰を考えているので体の大きさは関係ありません。

エフェソ 4:22~24
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

 ここでは古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につけるとあります。これが信仰者の衣替えです。私は季節の変わり目に衣装ケースとタンスの引き出しにある服を入れ替えます。わたしにとっての衣替えです。キリスト者の衣替えは季節には関係ありません。必要のあるつど行います。

 古い人を脱ぎます。どういうことでしょうか。古い人の生き方を捨てることを意味します。つまり信仰を持たない人たち、つまり罪を犯してもそれを自覚しないような人たちの生き方を捨てるということです。信仰を持つ以前の自分がしていた生き方を指します。

エフェソ 4:17~19
そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。

 これが古い人の生き方です。異邦人の生き方をやめることが教えられます。現代風に言い換えてみるとどうなるのでしょうか。ちょっと考えてみました。神を畏れることを知らず、自分の力に頼って歩み、自分の思いや自分の欲に従って歩み、自分の思い通りに生きようとします。自己満足を追求して歩みます。これが現代的古い人かな?

 新しい人を身につけます。どういうことでしょうか。新しい人の生き方を身につけることになります。具体的な生き方が次のように教えられています。

エフェソ 4:31~32
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

 新しい人として、どのように生きるかが示されています。親切、憐れみ、赦し、です。

 おしゃれの好きな方は多いと思います。自分らしさを表現したいと考え、身につける服を選びます。必ずしも高価なものを身につけるとは限りません。人の内面は見えませんが、身につけているもので自分らしさを表現したいと考えるのです。私もおしゃれは嫌いではありません。

 古い人を脱ぎ、新しい人を身につけるとは、具体的には、神さまの御心に生きること、神さまの教えに生きることですが、戒めを守ることに重点があるわけではありません。神の教えを守らなければならないと考えて生きることを律法主義と言いますが、これは堅苦しい生き方であり、イエス様はこれを否定されました。イエス様の教えで言うなら、私たちはよい木を目指すのです。よい木はよい実を結びます。

 あらためて思います。どんなキリスト者になるのか、なりたいのか、それを考えることが大切なのではないでしょうか。

 

f:id:holala:20210210185824j:plain

梅 散歩道