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隠退牧師 holala によるブログ

神の教えに従うということ

 神の教えを知っていることとその教えを守っていることは違います。神の教えを知っているからといって、その教えを守っているとは限らないということです。それがはっきり現れるのは、「~しなさい」という命令に直面した時です。「してはいけない」という命令は、ある意味具体的なので分かりやすく、禁止の教えを犯しているかどうかはわかりやすいです。教えに逆らえば逆らったとすぐに分かります。それゆえ、逆らうことがなければ、人は禁止の命令は自分は守っていると主張することができます。しかし「~しなさい」という命令は、そう簡単に「守っている」とは言えません。しかし案外人は神の教えを知っていればそれを守っていると考えてしまうのです。

 律法の専門家がイエスさまのもとに来て、何をしたら永遠の命を得ることができるかと尋ねました(ルカ10章)。イエスさまは「律法には何と書いてあるか」と逆に問います。すると彼は答えます。

ルカ 10:27
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。 

 すると主イエスさまは「それを実行しなさい」と語りました。律法の専門家は、隣人を自分のように愛することが神の大切な戒めであることは知っていました。しかしイエスさまが実行しなさいと言われると彼は、「わたしの隣人とは誰ですか」とイエスさまに尋ねたのです。「分かりました。実行します」とは答えませんでした。

 これは何を意味しているかというと、彼は神の戒めは知っていたということです。しかし実際に行ったことはなかったということです。もし行っていたなら、あのような質問はしなかったでしょう。

 「しなさい」という命令を守っていると言い切るには、具体的にどうするのか、を考えた上で実行していることが前提となります。その命令を行うタイミングが来たら実行しようという考えでは、なかなか実行できません。そのタイミングが来なければ、実行しないし、「タイミングが来たら実行しよう」という思いも、いつの間にか忘れてしまいます。

 おまけに聖書には「~しなさい」という命令は沢山あります。キリスト者とはいえ、色々な神の命令を知っていれば、それで十分と考えてしまいがちで、守っていると錯覚しがちです。あの律法の専門家がそうでした。

 神の教えに従おうとするなら、努力が必要となります。そんなにむずかしくないです。日々聖書を読むキリスト者は少なくないと思います。聖書を読んだ時、そこに書かれている神の教えを守る努力をすればよいのです。「~しなさい」との命令が一つあれば、それを実行するには具体的にどうしたらいいか考え、実行するのです。

 私は週に三回、聖書を思いめぐらし、神の教えを具体的にどう実行するか考え、実行するようにしています。これを習慣にすれば、私は神さまの教えを守っていますと答えることができます。しかしそこには自慢はありません。なぜなら神の助けなしに神の教えを実行することはできないからです。それゆえ、「なすべきことをしたに過ぎません」との謙遜な言葉が伴うだけです。

 

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