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隠退牧師 holala によるブログ

確かさの追求

 受難節にあるので、マタイ福音書26章以降のデボーションをしています。最初は26章1~5節です。特に思いめぐらしたのは2節です。

「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」。 

  イエス様は十字架につけられることを覚悟しています。イエス様はこれまでに三度ご自分が苦しみを受けて殺され復活されることを語っています。差し迫った十字架の死を前にして、弟子たちに御自分が捕らえられることを今弟子たちに告げました。直前の25章では、イエス様は終末の日の再臨と裁きについて語っています。

 イエス様は自分の死後何が起きるのかを知っており、それを語ります。そこには何の疑いもないように思えます。将来何が起きるか分からないことを一寸先は闇と言います。イエス様の目は終末の時まで見通しているかのようです。

 そして私たちキリスト者は終わりの日の復活、最後の審判、そして神に迎えられることを聖書から教えられ信じています。

 私たちが何事かを信じる時、そこには疑いがつきまとい、本当だろうかとの思いが湧いてきます。それゆえ確信を持って信じたいとの願いが私にはあります。あやふやな信仰でいたくないのです。いかにしたら確信を持って信じることができるのか、これはずっと私の課題でした。

 一つ得た結論は、自分の信仰心の強さが確信の根拠になるわけではないということ。確かさの根拠を私たちは自分の内に持つことはできないという結論です。確信を持って信じることができるか否かは、自分の信仰の強さではないのです。確かさの根拠は聖書にある、御言葉にある、これが私の得た結論です。聖書の言葉は真理だから、聖書が告げることは本当であると信じてよいし、信じることができます。御言葉が真理だからこそ確かであると信じることができるとの考えにたどり着きました。

 最近、もっと確かに信じることができたら、もっと確信を持って信じることができたらとの思いが強くなりました。それは年をとって自分の死が近づいたからです。一つ上のレベルの確かさ、私はそれを「主にある確かさ」と呼ぶことにしました。イエス様との交わりから与えられる確かさといってよいと思います。イエス様は父なる神さまとの交わりに生き、確信を持って終末の日の再臨を語ります。このような確かさがあるのかどうかは分かりませんが追い求めたいと思いました。

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