クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

弱さを誇るキリスト者

 マタイ福音書26章31~35節をディボーションしました。イエス様は

「今夜、あなたがたは皆わたしにつまづく」

と弟子たちに告げます。するとペトロは

「みんながあなたにつまづいても、私は決してつまづきません」

 と答えます。他の弟子たちがつまずいても私はつまずきませんというのですから、すごい自信です。どこからこのような自信が出てくるのか不思議です。ペトロの性格なのかもしれません。するとイエス様は、

「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」 

 と告げます。自信家のペトロは

「たといご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」

と応じます。他の弟子たちも皆、同じように言いました。

 イエス様は弟子たちがつまずくことを語りました。なぜ語ったのでしょうか。聖書には語られていないので、私たちにはその理由は分かりません。推測はできます。

 イエス様が捕らえられる場面に弟子たちが直面した時、イエス様はこの時のことを語ったのだと弟子たちが悟り、弟子たちが覚悟を新たにしてつまずくことがないようにとイエス様は願ったのでしょうか。弟子たちへの思いやりです。

 それとも弟子たちがつまずくことをイエス様は承知していたことを弟子たちに知らせるためだったのでしょうか。つまり弟子たちがつまずいてもイエス様は弟子たちを拒否しないことを伝えようとしたのでしょうか。弟子たちがつまずいたあと、自分たちはイエス様に会わせる顔がない、イエス様に会う資格はないなどと自分を責めるかもしれません。人間は自分を責めるのが得意です。

 イエス様は弟子たちの弱さを知っていること、そして弱さのゆえに弟子たちを拒むことがないことを伝えようとしたのでしょうか。

 私たちは恐れに支配されやすく、自分の意志を貫くことができない弱さを持っています。実際ペトロはイエス様が捕らえられた時、自分も捕らえられるのではないかと恐れに捕らわれ、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。また捕らえられたイエス様の後についていき、イエス様が尋問を受けている時、「あなたはあの人と一緒でしたね」と言われて「あの人のことは知らない」とイエス様を否定しました。

 イエス様が弟子たちがつまずくことを語ったのは、配慮の言葉だったのではないかと思います。私はあなたがたの弱さを知っているよとイエス様は弟子たちに告げたのです。イエス様は、裏切ったからといって弟子たちのことを拒むことはしないとのメッセージです。

 その証拠にイエス様は弟子たちに「あなたがたより先にガリラヤへ行く」と語られました。それは暗黙の内にガリラヤで会うことになると語っていると思います。またイエス様が葬られた墓に来た女性たちに、復活したイエス様は弟子たちへの伝言を頼みます。「ガリラヤに行くように。そこでわたしに会うことになる」。

 私たちは自分を誇ることができない者です。自分の意志を貫くことができない存在です。そのような弱さを持つ者です。そのことをイエス様は承知し、なお私たち愛し、受け入れてくださいます。そのことをペトロの裏切りの物語は伝えているように思います。

 同時に私はパウロの言葉を思い出します。

コリント二12:9
「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。

 私たちは自分の弱さにうなだれるだけの存在ではありません。自分の弱さにもかかわらず、キリストにより顔を上げることができる存在とされています。

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