クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

A長老とBさんの対話(4)新しい人、良い木

「A長老、こんばんは」

「Bさん、祈祷会に来られたのですね」

「はい少し緊張しました」

「初めてなら、そうですね。この間の続きで、一つ確認したいと思ったことがあります」

「何ですか」

「それは新しい人として造られたと信じることがキリスト者の歩みの出発点だとお話ししました」

「はい、そのように伺いました」。

「それは、私の意見、見解ではなく、聖書が語っていることを確認したいと思いました。テトスへの手紙3章5節とペトロの手紙一です」。

 

テトス 3:5

神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

 

ペトロ一 1:3~4

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 

「なるほど、私たちキリスト者は、神さまによって新しく生まれた存在であることが分かりますね」

「そうです、私たちは新しい人間に生まれた、これが信仰生活の出発点だということです。出発点であることを覚えたいのです。新しい人間は目標ではなく、出発点です。キリスト者として歩んでいく中で、私たちは自分が新しい存在にされたことを実感していくようになります」。

「そうなんですね。わかりました。私は新しく生まれた存在であると信じます。そして神の子とされたことも信じます」

「そこで次は、新しい人間として、新しく生まれた信仰者としてどのように生きるか、それが課題となります」

「そうですね。それを知りたいです」。

「でもこれについては、こうすればよいというただ一つの回答はないと私は考えています。パウロは聖霊の導きに従いなさいと語ります。あるいは新しい存在として、つまりキリスト者として守るべき戒めを教えます」

「でも、新しくされた者として歩んでいかなければならないので、どうしたらいいのか、知りたいです」

「多くの人たちは、神さまの教えを守る努力をしているのではないでしょうか。時にどうしても守れない教え、いや守りたくないとさえ思える教えに直面することがあります。すると教えに従うことのできない自分をどう受けとめたらよいのか戸惑うことがあります。ある人たちは、自分を責め、自分は罪深い、と考えます。また別な人は、守れる範囲で守ればよいのではと考えます」

「なるほど。どちらにしてもあまりうれしくないですね。聖書にはいつも喜んでいなさいとありますから、喜べないですね」

「そうなんですよ。実は私も喜べない日々がありました」

「それでどうなったんですか」。

「私は、牧師先生から教えられたわけですが、良い木になることを目指しました」

「良い木ですか。良い木ってどんな木をいうんですか」

「大切なのは、実は心なんですよ。神さまの教えというと、私たちは守ることを考えます。守ることができるか否か。でも大事なのは、どんな心で守るかなんです」。

「心ですか。つまり動機ということですか」

「そうです。自分は神さまの教えを守れているといって、自分を誇ったり、あるいは自分をよく見せたいという心で神さまの教えを守ることがあります」

「人から認められるというのは気持ちいいですね。また自分を誇ることができるというのもいいものだと思います」

「でもそれは裏腹なんです。逆に守れなかったらどうなりますか?」

「そうですね、劣等感を持ったりするかもしれませんね」

「そのときの心は、自分に向いているんです。自分ではなく神さまに心を向けるんです。神さまを大切にする心。神さまを喜ぶ心。この心を求めるんです。これが良い木だと私は考えています」

「ふ~ん。神さまの心なんて考えたことありません。ちょっと考えさせてください」

 

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馬酔木(あせび) 良い香り