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隠退牧師 holala によるブログ

イエス様の権威

 マタイ福音書の26~27章を読みながら受難節を過ごし、イースタを終わって28章を読みました。28章の最後、イエス様が弟子たちにすべての人をわたしの弟子としなさいと命じられた場面は何度も読んできましたが、今回は身が引き締まるような思いで読みました。

 それは

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」

とのイエス様の言葉です。イエス様は御自分がどういう方かを語りました。主イエスは天と地の一切の権能を授かっている方なのです。問題はこれが何を意味しているか、です。

 牧師として働いている時は、イエス様の命令の方に目が向いていました。伝道し、信仰者をイエス様の教えに従うように育てることに力を注いできました。「天と地の一切の権能を授かっている」ことについてはイエス様は神なのだから、当たり前と読み過ごしてきました。そのことにあらためて気づきました。

 天と地の一切の権能を授かっている、これはすごいことです。イエス様を救い主と信じることと一切の権能を持つ方と受けとめることは異なります。イエス様を救い主と信じていても一切の権能を持つ方と認めるとは限りません。「権能」と訳された言葉は、「権威」とも訳されています(口語訳聖書)。

 イエス様を天と地の一切の権能を持つ方と認めるとは、要するに、全く無条件にこの方の言葉にお従いするということです。しかも従うことは当然と考えてお従いすることです。さらには喜んでお従いすることです。自ら進んでお従いすることです。それが最善と考えてお従いすることです。

 アダムとエバは、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と語られた神さまの権威を認めませんでした。神さまの命令をいとも簡単に捨ててしまいました。神さまでさえも自分たちの上に立つことを嫌ったのです。そして神さまの言葉に従うことを拒んだのです。対照的にイエス様は、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで父なる神に従順に歩まれました。つまりイエス様は父なる神の権威、権能に従っておられたのです。

 イエス様をどのようなお方と考えるのか、信じるのか。イエス様が父なる神さまにまったき従順を尽くしたように、私もイエス様にまったき従順を尽くしたいと思いました。今回イエス様の言葉を思いめぐらして、イエス様の言葉を無条件に本気で信じようと思いました。今回、特に、終末の事柄、そしてイエス様を信じない者の滅びを。そして本気で信じることから生まれる言葉を語りたいと。

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春爛漫 散歩道にて