(ある日曜日礼拝後) Bさんは男性 Cさんは女性です。
「Bさん、こんにちわ」
「やあ、Cさんこんにちわ」
「先日、BさんがA長老と話し、大切なことを教えていただいたと話して下さったので、私もA長老とお話しをさせていただきましたの」
「そうなんですか。どんな話しをなさったのですか」
「クリスチャンは聖なる者である、ということについてA長老にお聞きしたのです」
「そうなんですか。私はA長老とクリスチャンは新しく生まれた者であることについて、お話ししました」
「少し聞かせていただけますか」
「ええ、いいですよ。説教でクリスチャンは『新しく生まれた者である』と聞きました。でも、私には新しく生まれたという実感はないので、戸惑いました。それでA長老に相談というか、私の気持ちを話したのです」
「それで」
「まず信じることが大切ですと言われました。Bさんは神さまの存在を実感したから神さまを信じたのですか。それとも実感はしなくても信じたのですか、と聞かれました」
「なるほど」
「実感はしていないのに信じていますと答えました。すると、それと同じですよ、新しい人にされていると信じるのです、とA長老はおっしゃいました」
「そうなんですか」
「CさんはA長老と何を話されたのですか」
「私は聖書に『わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい』と書いてありますが、聖なる者になるなんてとんでもないと思い、そのことをお話ししてみました」。
「そうですね。聖なる者になるなんて、私もちょっと受け入れがたいですね。それでA長老は何と言われたのですか」
「聖なる者について、自分でイメージを作らないで、聖書がどういう人を聖なる者と言っているのか、それを知ることが大切ですと言われました」
「なるほど。確かにそうですね。それで今日はどうして僕に話しかけたのですか」
「実は、A長老に聖なる者になることにどんなメリットがあるんですか、と聞いたのです」
「え、メリットですか」
「そんなに驚くことですか。そしたらA長老が、『ははははは、これはまいった』と言って、その日の話は終わったんです」
「そうですか。ところでCさんは何がきっかけで洗礼を受けたんですか」
「私は心のよりどころが欲しくて信仰が大切だと思ったんです。それで教会に行きました」
「心のよりどころですか。それは大切ですよね」
「礼拝の説教で罪の赦しが語られますでしょ。これはうれしかったです。実は何回か人を傷つけるような言葉を出して、後悔していることがあるんです。これを思い出すと心が穏やかでいられなくなるんです。本当はあやまればいいんですが、それができなくて」
「でもイエス様を信じ、罪の赦しが与えられてよかったですね。実は私、A長老に新しい人にされていると信じることに違和感があると話し、私としては、イエス様を救い主と信じ、いつもわたしと共にいて下さると信じ、神さまの戒めは、できる範囲で精一杯守る努力をし、死んだら神さまのもとへ行くと信じ、それでよいのではないかと思っているんです、と話しました」
「Bさんのそのお話しは、わかります。私もそう思いますから」
「そしたらA長老は、それは偶像礼拝だと言うんですよ。びっくりしました」
「たしかに、そんなこと言われたら驚きますわね」
「A長老は、聖書の神さまは、神さまの戒めをできる範囲で守りなさいとは言っていません。むしろ全部守りなさいと言っています。Bさんは聖書の神ではなく、自分にとって願わしい神さまを信じていることになりますと言われたのです」
「ちょっとわかりにくいです。どういうことですか」
「つまり、わたしの戒めをできる範囲で守ればいいよ、と語る神を私は信じていることになり、そういう神は聖書の伝える神ではなく、私が考え出した神だというのです」
「なるほど、それで偶像礼拝をしていると言われたんですね。それでどうしたんですか」
「私は偶像礼拝はしたくないです、と答えました。そこで私は、自分は新しく生まれた存在であるということをきちんと考え、信じることが大切だと考えるようになりました」
「そうなんですか」
「ところでCさんは、心のよりどころを得るために信仰に入ったと言われましたが、神さまに何を期待しているんですか」
「それは、もちろん、私の人生を祝福して下さることです。そして平穏な日々を送ることができるようにしていただくことです」
「そうですか。A長老に倣って言えば、Cさんの信じている神さまは、聖書の神さまではないかもしれません。Cさんは偶像礼拝しているかもしれません」
「え、それはちょっとひどいんじゃありません。だって私は毎週教会の礼拝に出ているんですよ」
「はっきり言いすぎたかも知れませんね。ごめんなさい。でも心配する必要はないんです。私は新しく生まれたと信じることにしました。つまり私はこれからクリスチャンとして成長していくのです。言い換えると今は偶像礼拝になっているかもしれませんが、聖書から神さまのことを学び、聖書の教えを学んでいく中で、私の中で、自分が信じる神さまが聖書の神さまと一致するようになっていきます。そう私は信じています」
「Bさんのおっしゃることは理解できます。でも、私のどこが偶像礼拝なのでしょうか」
「聞きたいですか」
「はい」
「使徒パウロはこのように述べています。コリントの信徒への手紙一10章13節です」
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
「いかがですか。神さまを信じている人でも試練に遭うことがあります」
「そうですね。神さまは私たち信仰者に平穏無事を約束しているわけではないのですね」
「でも逃れる道を備えてくださると約束しておられます。ですから試練の中にあっても、大丈夫なのです」
「私、もっと聖書を読むようにしたいと思います。ありがとう、Bさん」