クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書を読んでの気づき

 昨日、観察することについて書きました。観察することって大事だなと思わされました。あらためて写真を撮る野草について知りたいと思いました。

 私にとって一番大切なのは聖書です。いくつかのキーワードを念頭に置いて聖書を読んでいます。「福音とは何か」「終末に何が起きるのか」「救いとは何か」「聖霊」「教会」。いうなれば聖書を読む時の観察の視点となります。

 最近聖書を読んで気づいたことを紹介します。今、コリントの信徒への手紙一15章を思いめぐらしています。ある人が問います。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」。これに対してパウロは答えます。 

15:42~43
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 

  パウロは人は復活した時、霊の体に復活するというのです。私はこの箇所は何度も読んでいました。人は霊の体に復活すると理解していました。しかし見過ごしていたことがあったことに気づきました。49節です。 

15:49
わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。 

  私たちは生まれた時、アダムの似姿となっています。だから私たちは罪を犯します。私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれます。そして復活したら、天に属する人すなわちキリストの似姿になるというのです。霊の姿に復活するといっても何のことやら分かりませんが、キリストの似姿に復活するということは聖書の他の箇所にも書かれています。この箇所でもパウロは、私たちはキリストの似姿に変えられると語っていることに気づかされました。

 現代人には死者の復活は信じられないことです。それよりも死んだら天国に行くという方がどれほど信じやすいことでしょうか。パウロは、私たちは朽ちないもの、輝かしいもの、力強いもの、霊の体に復活すると語り、さらにはキリストの似姿になると云います。彼はどうしてこのようなことを大胆に語るのか、不思議に思います。彼の妄想とは思えないし、願望とも思えません。神さまがパウロに啓示されたのでしょうか。

 老いを生きる者としては、死んだ後のことが聖書にどのように書かれているのか興味深いし、聖書に書かれているとおりのことが起きると考えると、それは楽しみとなります。

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