クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神をたたえる言葉を見つける(3)

 コリントの信徒への手紙二の最初にパウロが神さまをたたえる言葉があります。

コリント二1:3
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。

 今の私には、このパウロの告白を共にすることはできません。それなら、自分はどんな告白ができるのかと思って、自分の人生を振り返ることを始めました。前回、神さまは私が生まれる前から、私をキリストを宣べ伝える者にしようとされていたのではないかと思わされた次第を書きました。

 今日は牧師人生を振り返って一番心に残る「人との出会い」について振り返りました。私はキリスト教とは無縁の環境の中で育ちました。洗礼を受け、もっと聖書を知りたいとの思いで夜間の神学校に行き、神学校を卒業するときは、牧師になるのが当たり前との気持ちになっていて、会社を辞め、牧師としての新しい人生を歩みました。これで分かることは、私はキリスト教のこと、教会のこと、信仰のことがほとんど分かっていないということです。

 毎週の説教のために聖書を読み、説教をしながら、信仰のことを学んでいったといってもよいと思います。そんな私を信仰者として、あるいは牧師、説教者として成長させるために神さまは、何人かの人との出会いを与えてくださったと考えています。

 最初に出会ったA牧師。A先生はホーリネスの信仰を持っていました。私は彼から「敬虔」ということを教えられました。辞書によれば「敬虔」は「神仏に深く帰依してうやまいつかえること」とあります。私は、素直に神さまの教えに従い、心を清く保つことと受けとめました。A牧師から教えられてアンドリュー・マーレーの本をいくつも読みました。

 次に出会ったB牧師。B先生からは教会とは何かを考え、教会を大切にすることを教えられました。そして改革派の信仰を学びました。数名の牧師との定期的な勉強会を開いてくださり学びました。熊野義孝という神学者の本でキリスト教の教義を学んだことは感謝でした。私の神学的な立場が明確になりました。私は宗教改革者のカルヴァンの本が好きです。

 次に出会ったのはC牧師。C牧師は韓国の牧師です。B先生ともう一人の先生と一緒に、一週間韓国を訪問し、韓国の教会生活を見てきました。C牧師の話や、韓国の教会を見学し、私は祈りの大切さと聖霊に導かれる歩みの必要を知らされました。帰国後、聖霊についての個人的な勉強が始まりました。これは何年も続きました。

 次に出会ったのは、D牧師。個人的に知り合ったわけではなく、超教派の集会で知った方です。私は聖書を読んで生きること、御言葉に生きること、聖書を生きることを学びました。聖書を生きる方法をディボーションと呼び、これを私は学び、今に至るまで続けています。

 次に出会ったのはE牧師。私はこのE牧師から聖書を神の言葉として読み、聖書に生きることを学びました。E牧師の講演のテープを何本も聞き、テープ起こしをして学んだことを思い出します。私は自分の物事の考え方の土台を聖書にすることができました。自分が身につけてきた思想、常識、考え方を聖書に照らして、聖書に基づいて物事を考えるようになりました。

 次に出会ったのはF牧師。信仰を育てることを学びました。自分自身の信仰を育てると同時に、牧師として、信徒の信仰の成長に仕えることを学びました。そしてこれを実践してきました。信仰者を育てることの難しさと喜びを神さまからいただきました。

 次に出会ったのはG牧師。G牧師は説教塾を主宰し、私はこれに参加し、説教を学びました。近隣の牧師たちとの地域の説教塾に参加し、相互の説教を批判しながら説教の研鑽をしました。他者の説教を批判することは、批判する自分の批判そのものも批判の対象になります。他の人が自分の説教をどのように批判するのか、それを聞くのは、興味深いものがありました

 このような出会いを与え、私の歩みを神さまは導き、私を牧師として生かしてくださいました。このような神さまをいかなる神と考えたらよいのでしょうか。言うまでもなく父なる神さまです。子を思い、子を愛し、子を導く父なる神の愛の中に自分が置かれていることを思います。父なる神、愛の神さまであることは告白できそうです。

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ムラサキツユクサ あぜ道で