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隠退牧師 holala によるブログ

神をたたえる言葉を見つける(4)

 神学校を卒業して教会に遣わされると「先生」と呼ばれます。牧師としての経験がゼロでも「先生」と呼ばれます。なぜ先生と呼ばれるのでしょうか。慣習ではありません。それはその人が担う働きのゆえです。牧師という務めを担うゆえに「先生」と呼ばれます。どんなに若くても、牧師としての働きが未経験でも「先生」と呼ばれます。それは、その人がどんな人なのかは関係ありません。

マルコ 10:45
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。 

  牧師は「先生」と呼ばれますが、基本的には仕える働きをします。牧師の働きはすべて仕える働きといってよいと思います。仕える務めを負う者であることを忘れてはならないと思います。言い換えると謙遜を身につけなければなりません。しかし牧師も人です。プライドがあります。人の評価を求めます。人からよく思われたい、人から評価されたい、人から尊重されたいとの欲求があります。立派な牧師であると思われたいし、そのように尊敬してほしいとの誘惑があり、謙遜になることは戦いです。霊的な戦いです。生涯続く戦いです。

 私が最初に牧師として教会に遣わされた年に中高生の夏の修養会に参加しました。最終日、昼食を食べ終わった人から解散でした。私はこの修養会の担当牧師の一人だったので、皆が帰るのを見届けるつもりでした。多くの参加者が帰った頃、年配の先生が各テーブルの上を布巾できれいに拭いていました。これは私には衝撃でした。無意識のうちに、それは牧師のすることではないというような思いが自分の中にあることを知ったからです。そんな思いに気づいて、私は恥ずかしくなりました。神さまがわたしに見せてくださった光景でした。

 でも今、あらためてこれは恵みの出来事であったと思います。謙遜に歩むべきことを深く教えられたからです。私の牧師人生の中で、謙遜になりなさいと教える刺が私の心に刺さったように思いました。もしこのことがなかったら「それは牧師の私がすることではない」という思い上がりを持ち続けたかもしれません。

 聖書を読んで謙遜になることが大切なことは理解しますが、そのことと本当に謙遜になることは別です。神さまは、牧師として歩み始めた私に本当に大切なことを教えてくださったことをあらためて思いました。牧師となってまだ右も左も分からない未熟牧師に思いがけなく大切なことを教えてくださった神さまを何とたたえたらよいのでしょうか。「慈」という字が何となく見えてきた気がしました。

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