クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神をたたえる言葉を見つける(5)

 私は25年ほどディボーションと呼ぶやり方で聖書を読み続けています。自分でもよく続いているなと思います。祈りつつ聖書を思いめぐらし、そこから教えられることと自分の状況や自分の心とを照らし合わせ、神さまの導きを受けとめ、それに従って歩む生活を続けてきました。つまり私は、聖書を通して神さまが導きを与えてくださると信じ、与えられた導きに従って歩んできました。

 自分が受け取ったと信じる神さまの導きが、本当に神さまの導きなのかどうかは分かりません。しかし私は聖書を読んで示されたことを神さまの導きと信じ受けとめることにしています。牧師の働きを引退したあとは自由な生活、隠居生活になります。私は何をしてよいのか分からないということはありません。今までできなかったことをしようという思いもありません。今までと変わることなく、聖書を読み神さまの導きを受けて生きていきます。

 私は神さまが聖書を通して私を導いてくださると信じています。そこで問いが生じます。聖書を通して導く神さまは、どのような神なのかということです。導きを与えるのだから愛の神さま?子を導こうとする父なる神?取るに足りない私を顧みてくださる慈(いつく)しみの神さま?憐れみに富む神さま?恵みの神さま?聖書を通して導いてくださる神さまをどう呼んだらいいのでしょうか。

 さらに言えば、神さまの導きに従って歩む中で、導かれた結果というものがあります。その結果を見ることにより、神さまがどのような方なのかを考えることもできます。

 パウロは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」(コリント二1:3)と神を賛美しました。パウロは慰めを豊かに与えてくださる神を「主イエス・キリストの父なる神」「慈愛に満ちた父」と呼びました。

 

 私たちの主イエス・キリストの父である神、(     )、導きを豊かに与える神がほめたたえられますように。

 

かっこの中に何という言葉を入れたら自分にピッタリくるのか。

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