クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書が教える罪とは何か

 昨日、聖書が教える信仰についてお話ししました。信仰とは神との契約に生きることです。旧約の預言者は神の言葉を語りました。

  • 神は「あなたがたはわたしの民であり、わたしはあなたがたの神である」と言われます。
  • イスラエルの民は「あなたは私たちの神であり、私たちはあなたの民です」と言います。

 ここに神とイスラエルの民との間に関係が生じます。この関係に生きることが信仰でした。 私たちはイスラエルの民ではありませんが、同じ関係に生きることになります。ちょっと言い換えると次のようになります。

  • 神は「わたしはあなたの天の父なる神であり、あなたはわたしの子である」と言われます。
  • 私たちは「あなたは天の父なる神さまであり、わたしはあなたの子です」と言います。

 天の父なる神と神の子としての私たちとの関係に生きることが信仰となります。すると罪とは、この関係に生きようとしないことを意味します。罪とは心の中で神を敬わないことであり、その結果として神を敬わない行動をすることです。私たちが心の中で神さまを敬わないことが罪であり、その結果、神さまを敬わない行動、つまり神さまの教えに背く行動をすることが罪となります。 

 そして人間には、神さまよりも自分のことを大切にしようとする傾向があり、神さまよりも自分のことを優先しようとする誘惑があります。ここで罪との戦いが生じますが、人間は自分の力でこの罪に勝つことができません。新約聖書はこのことを人は罪の奴隷であると語ります。 

  • 誘惑に負けて罪を犯したアダムとエバ

 アダムとエバは蛇の言葉を聞いて、神さまが取って食べてはいけないと言われた木の実を賢くなりそうだからと考えて、食べてしまいました。 

  • 傲慢になって罪を犯したダビデ

 ダビデは信仰的な王でしたが、王として権力を握り高慢に陥り、人妻と関係し、その夫を戦場で死ぬように仕向けました。姦淫と殺人を犯しました。 

  • 傲慢になって罪を犯したパウロ

 パウロは、信仰熱心であり、誰よりも神の律法を守っていると自負していました。クリスチャンを迫害し罪を犯しました。パウロは律法は熱心に守っていましたが、高慢に陥り、神が救い主を送られたその心を理解しようとはしませんでした。神の戒めを守ることに熱心でしたが、神さまの心には無関心でした。 

*傲慢は神より上に立とうとする心です。謙遜さを失わせます。 

  • 恐れにとらわれて罪を犯したペトロ

 イエスはペトロに「あなたは私のことを知らないと三度言うだろう」と言いました。それに対してペトロは「あなたを知らないなどとは言わない」と言い張りました。しかし一人の女性から「あなたはあの人と一緒にいた」と言われて、恐れにとらわれた瞬間、「あの人のことは知らない」と語りました。しかも三度。彼は罪を犯しました。 

  • 神の言葉を軽んじたモーセ

 モーセはエジプトを脱出したイスラエルの民を率いて荒野を旅していました。ある時飲み水がなくなりました。民は不平を言いましたがモーセは神に相談し、神はモーセに杖でもって岩をたたくように指示しました。岩をたたくと水が出ました。時が過ぎ、また飲み水に困ることが起きました。神はモーセに「水を出せと岩に命じなさい」と言われました。しかしモーセは杖で岩をたたき、水を出させました。神の命令に従いませんでした。この罪のためにモーセは神がイスラエルの民を連れて行く土地に入ることはできませんでした。 

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何とも言えない空 バス停で