クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

パウロから教えられたこと、愛

 今、コリントの信徒への手紙二を毎日少しずつ読み、思いめぐらしています。パウロにとってコリント教会は大切な教会です。パウロがコリントの町で一年半伝道してできた教会です。パウロはキリストを広めるために旅行をし、各地でキリストを伝えます。ですからコリント教会を去ります。パウロが去った後、コリント教会に「教師」と呼ばれる人が来て、教会を指導することがあります。教会は、その「教師」の影響を受けることがあります。

 その後パウロはエフェソの町に来ます。エーゲ海を挟んで向こうはコリントの町があります。コリント教会の様子を聞いたり、パウロがエフェソにいると知ったコリント教会の人たちがパウロにアドバイスを求めたこともあって、パウロはコリントの信徒への手紙一を書きます。

 その後コリント教会に来た「教師」がパウロに対して批判的な態度をとり、教会に影響を与えたためにパウロとコリント教会の関係は悪くなりました。関係を回復したいと考えたパウロはコリント教会を訪問して話し合ったのですが、よい結果は得られず、パウロは落胆してエフェソの町に戻りました。そしてパウロは涙ながらにコリント教会宛に手紙を書きます。パウロは自分がキリストから召された使徒であり、使徒として真実に働いてきたことを書きました。それをコリント教会に送り、また同労者であるテトスをコリント教会に送り、手紙がどのような結果をもたらすのかを不安な思いで待っていました。

 パウロはテトスが戻ってくるのを待ちきれず、エフェソからトロアスそしてマケドニアまで来たところでテトスと会うことができました。テトスは朗報を持ってきました。コリント教会の人たちがパウロを慕い、パウロに対して熱心であることをテトスは報告し、パウロは喜んだのです。そしてパウロはコリント教会に手紙を書きますがその中で、次のように書いています。 

「わたしはすべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます」(コリント二7:16)。

  私はこれを読んで少なからず驚きました。コリントの信徒への手紙一を読むと、教会には信仰上の色々な問題があることがわかります。コリント教会の人たちの信仰は成熟しているとは言えないのです。コリント一3章1~3節には次のように書かれています。 

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。

  コリント教会の人たちはクリスチャンかもしれませんが、「ただの人として歩んでいる」と見なされています。つまり信仰を持っているのかどうか、よく分からないというのです。キリストとの関係では「乳飲み子だ」というのです。

 さらにコリント教会の人たちはコリントに来た「教師」によって影響を受け、パウロに対して批判的になりました。パウロが訪問して言葉を尽くして語ったと思いますがパウロに対する批判を変えませんでした。そしてパウロが涙ながらに書いた手紙を送ったとき、ようやくコリント教会の人たちは目が覚めて、パウロを信頼し、パウロを慕ったというのです。このようなコリント教会、教会の人たちにパウロは書くのです。

 「わたしはすべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます」

  すべての点でコリント教会、教会の人たちを信頼できるなんて、どうしてそんなことが言えるのかと思います。信仰的に未熟で、未熟だから他人の影響を受けやすく、パウロに対して批判的になったコリント教会、教会の人たち。悔い改めてパウロを理解し、パウロを慕うようになったかもしれません。このような人たちに対してパウロは、「すべての点であなたがたを信頼できることを喜ぶ」というのです。

 少なくとも私だったら、コリント教会、教会の人たちをすべての点で信頼できることを喜ぶなんて到底手紙に書くことはできません。できるはずがありません。それなのにパウロはなぜ、そのように言うことができるのか。思いめぐらしました。そして得た答えは、「パウロは神の愛で、コリント教会、教会の人たちを愛している」です。神の愛は無条件の愛。だから無条件で信頼しているのだと。

 神さまは、私に福音を宣べ伝える働きをゆだねてくださいました。牧師となるように私を召してくださり、私に働きをゆだねられました。神さまが私に福音を宣べ伝えるように召してくださったのは、私がふさわしい人間で、だから私に信頼し、期待したのでしょうか。違います。私という人間には問題があり、欠けがあり、神さまに信頼され、期待に応えることができる働きをできるような人間ではないのです。常識から言えば、福音宣教をゆだねることには不安があり、失敗する可能性があるゆえにゆだねられないのです。

 しかし、ゆだねたら失敗するかも知れない、うまく行かないかも知れない、でも信頼しよう、任せようと神さまは私に期待をされたのです。コリント第二の手紙を読んで私は神さまの深い愛を感じました。パウロのコリント教会、教会の人たちへの信頼は、信頼に足りるから信頼するのではなく、むしろ信頼できるようになってほしいと願って信頼したのです。それは期待外れに終わるかも知れない、期待が裏切られるかも知れない。それでも期待をするのは、無条件の愛からでたものです。このパウロの愛は神の愛です。パウロの愛、神の愛に私の心は少し震え、喜びました。

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コマツヨイグサ 夕食後散歩に出たら開花していました。