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隠退牧師 holala によるブログ

A長老とCさんの対話(10)聖書を通して神を知る

「A長老、こんにちは」

「あ、Cさん、こんにちは。お変わりありませんでしたか」

「はい。おかげさまで。先日お話しさせていただいてから、毎日聖書を読むようにしました」

「ああ、それはすばらしいですね。聖書を読むことは大切です。霊の糧とも言われますから」

「霊の糧ですか。どういうことですか。それはともかく聖書は読んでみました」

「それでいかがでしたか」

「正直にお話しするなら、聖書を読んで思いめぐらすということがよく分かりませんでした」

「そうですか」

「聖書を読んでいると、戒めというか、教えというか、それが頭の中に入ります。クリスチャンはこうすべきだ、こうしてはならない、というのはよく分かります。でもこのような戒めばかりを読むのはつまらないんです」

「それはそうですね。聖書は法律の本ではありません」

「でも説教で、聖書には律法が書かれていると先生がおっしゃってましたわ」

「そうですね。確かに聖書には神さまの戒めが沢山書かれています。でも大事なのは、神さまを知ることではないかと思うんです」

「神さまを知ることですか。そんなこと考えたことがありません」

「私もそうでした。でも私たちは神さまを信じるわけですから、神さまがどんな方なのか知ることって大事ではないですか」

「そう言われればそうかもしれません。でも神さまって悪い神さまではないから、こだわらなくてもよいのではないでしょうか。説教で何回も神さまは私たちを愛してくださっているって聞きました。それで十分なような気がしますが」

「たしかにそう思われても当然です。でも、もしCさんの友人が、Cさんていい人なのよとしかいわなかったらどうですか。Cさんは個性があるし人格があるし、Cさんってこんな人で私は好きだわとか、こういう点は尊敬できるわね、とか言われたらうれしくないですか。それはCさんのことをよく知っているから出てくる言葉ですよね」

「そう言われてみればそうですね。自分のよい面を理解してもらえるってうれしいです」

「神さまも私たちに具体的に知って欲しいと思っておられます。私はそう思います」

「確かに、神さまは愛の神さまとしか言われなかったら、残念に思われるかもしれませんね」

「前回お話ししましたが、私たちは神さまを神とし、神さまを崇めて生きるわけですが、神さまがどんな方か知らなければ崇めることもできません」

「そう言われれば、そうですね」

「ですから、聖書を読むとき、最初は神さまの戒めよりも、神さまがどんな方であるかを知ることに重点をおくとよいと私は思います。私はうちの先生から聖書の読み方を学びましたが、聖書を読み、神さまがいかなるかたかを知ることを大切にするように教えられました」

「たとえば、A長老は、聖書を読んで、神さまをどのような方と知るようになったのですか」

「そうですね。フィリピの信徒への手紙4章19節にこんな言葉があります。

『わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます』。

神さまは私たちの必要を満たす方であると書かれています。私には4人の子どもがいて、ある時、子供たちの進学の費用がかさみ大変なときがありました。それでこの聖書の言葉を頼みにして、つまり神さまが必要を満たしてくださる方と書かれているので、これを頼みにして夫婦で共に祈りました」

「それでどうなりましたの」

「妻にいいアルバイトが見つかり、必要が満たされました。必要が満たされるといっても、お金が天から降ってくるわけではありません」

「なるほど。ずいぶん具体的ですね」

「はい。これは一例ですが、神さまを信じるのですから、自分が信じる神さまがどんな方なのかを知ることは大事だと思います。聖書が伝える信仰とは、神との関係に生きることですから、神さまがいかなるかたかを知ることは大切です。そこで聖書を読むわけです」

「なるほど。他には、神さまをどのような方と知るようになったのですか」。

「コリントの信徒への手紙一の13章にクリスチャンなら多くの人が知っている言葉があります。

『あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます』。 

 これは忘れられない聖句です」

「この聖書の言葉を大切に思っている人が少なくないですね」

「はい、私も実は会社で辛いことがありました。精神的に参ってしまい、もうちょっとでうつ病になるかと思いました。その時、大学の友人が思いがけなく連絡をくれて、実は転職したんです」

「そうなんですか。神さまは逃れる道をも備えてくださる方ですか」

「試練に遭っても、私たちは、神さま、なぜこんな目に遭わせるのですか、と抗議はしません。神さまは逃れる道を備えてくださると同時に、試練を通して何か大事なことを教えようとしておられると受けとめることができます」

「なるほど。神さまがどんな方か知らないで神さまを信じるのは考えてみれば不自然ですね」

「ですから聖書を読むとき、神さまの戒めは横においておいて、神さまがいかなる方なのかに注意して聖書を読んではいかがでしょうか」

「そういう聖書の読み方があるなんて考えたこともありませんでした。でも神さまを知るって何かうれしくなりそうですね」

「神さまがいかなるかたかを知ることによって、自分の歩み、生き方が変えられると思いますよ。こういう言い方をしていいのかどうか分かりませんが、私たちが信じる神さまは人格を持ったお方なんです。私たちと同じように、考え、感じ、行動する方なんです。信仰とは、人格をもった神さまと関わって生きていくことなんです。だから神さまを知ることが大切なんです」

「おっしゃることはよく分かりますし、神さまを信じるってどういうことか分かってきたような気がします。何かうれしくなりました」。

「結婚して、自分の夫が暴力を振るう男だと知ったら、ショックですよね。でも神さまは、決して私たちを落胆させません。聖書には、神さまは真実な方であると書いてあります。今度、聖書を読まれて神さまがどのようなお方であると知ったのか、教えてください」

「分かりました。喜んでお話しさせていただきますわ。では今日はこれで失礼します。ありがとうございます」

「ではお元気で」

 

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コマツヨイグサ 朝出会ったときは閉じかけていました