奈良高畑教会の祈祷会で「私とパウロ」と題して短くお話ししましたので紹介します。
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老いの中にある者として自分の死を意識し、
死を越える希望をどのように抱くのか、
老人キリスト者としての私の課題です。
私には祈っていることがあります。
また神さまが私を召されるときが来たら
「良くやった。私のもとに来なさい」と声をかけてください、と祈っています。
その時が来たら「喜んで死ぬことができるように」とも祈っています。
またコリント一13:12には
「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」とあります。
顔と顔を合わせて神を見る、これを私の希望としています。
その他にも希望を与えてくれる聖書の言葉があります。
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今日、私が取り上げるのは使徒パウロです。
パウロはこう語るのです。
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:21)。
「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており」(フィリピ1:23)。
いずれも驚きを与える言葉です。死ぬことが益だなんて思う人はあまりいないと思います。
まだ健康なパウロが今すぐにでも「この世を去ってキリストと共にいたいと願うなんて」驚きです。
パウロはなぜ、このように考えるのでしょうか。
このようなパウロに私は注目します。
なぜ、パウロはこのように考えるのか、明らかにできたらいいなと思っています。
パウロが語る言葉で私が注目する言葉が二つあります。
一つは先ほど読んだ言葉です。
フィリピ1:21
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
もう一つはガラテヤ書にある言葉です。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(2:19~20)。
この二つの言葉にパウロらしさが表れているような気がします。
キリストに出会うまでのパウロは神さまに対して熱心に生きていた人でした。
神さまに対する熱心さのゆえに、クリスチャンを迫害していました。
しかしキリストに出会い、彼の生き方は逆転しました。
パウロはキリストを宣べ伝える者とされました。
パウロの心に何が起きてこの逆転が起きたのかと思います。
これから語ることは私の想像です。
パウロはキリストと出会い、キリストに動かされたのではないかと思います。
キリストから大きな感化を受けたというのではなく、それ以上のものです。
キリストに突き動かされたのです。
そのことを彼は、キリストが私のうちに生きていると言ったのではないかと思います。
それはキリストに自分の心が乗っ取られたと言うことではありません。
むしろキリストの心をわが心とすることができた、と言ってもよいのかと思います。
キリストに出会い、キリストと一つにされました。
パウロは本当にキリストと一つになって生きていることを思います。
この世にあっては、信仰においてキリストと一つですが、
世を去れば、文字通りキリストと共にいることになります。
☆
フィリピの信徒への手紙を書いているパウロは若くありません。
おそらく老人です。
ある意味、この世に思い残すことはないので、
この世を去ってキリストと共にいることを切に願っていると言えます。
私も年をとり老人ですが、
「今すぐこの世を去って、などとあわてなくても、いいのではないか」と
思ってしまいます。
いずれ御国に行くのですから。
でもパウロは違います。
今すぐ世を去ることを熱望します。
パウロは本当にキリストと一つになって生きていることを思います。
キリストをわが主と慕う気持ちがとても強いのだと思います。
私はこんなパウロに憧れ、
少しでもパウロの境地に近づけたらと願っています。