最近ある一つのテーマについて祈っています。一つの問題の解決を求めての祈りです。解決ですから神さまの御心が行われることを願います。でも何が神さまの御心なのか、それは自分には分からないのです。Aを願うことが御心なのか、Bを願うことが御心なのか分かりません。神さまがよしとされる解決がなんなのか分かりません。だからといって「御心を行って下さい」とは祈りにくいです。あるいは「あなたにゆだねます」とも祈りにくいです。私には自分の思いがありますから。
そこで自分は問題をどうとらえているのか、それを神さまに話します。自分の思いを神さまに伝えます。あるいは時に訴えます。そのようにして自分の思いをすべて神さまにぶつけます。自分の思いに対する神さまの応答がすぐに来るわけではありません。いつ来るか分かりません。祈りを文章に書き、印刷し、それを読む形で祈ることもあります。文章に書けば言葉を尽くし整えられた祈りになると思うからです。
私たちの生活の中で起きる問題は、自分の願う形の解決が与えられればうれしいですが、神さまの御心はどこにあるのかが必ずしも分かりません。私は自分の願う形の解決よりも神さまの御心がなることを願います。しかし自分が問題をどう考え、どのような解決を願うのか、その理由を挙げて神さまを説得するように祈ります。私の願いはもっともであると訴えるのです。もちろん神さまの御心が行われることが一番です。
祈りは単に願いを告げることではなくなり、神への訴えとなり、神への説得となり、その上で神さまにゆだねることとなります。
「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」とイエス様は教えられました。でも結果が出るまで忍耐強く祈らなければならないこともあるようです。
そういえば詩編の詩人も神さまに訴える祈りをしています。