昨日、NHKの『クラシック音楽館』を見ました。今回は4人の指揮者の対談のような番組でした。交響曲などの時間的に長く、しかも沢山の楽器によって演じられる曲を頭の中に入れて指揮をすることに私は驚きを感じています。賜物を与えられているのだと思います。印象に残ったのはコロナ禍の音楽状況での試みです。音楽会が次々に中止になりました。やがて演奏会の試みが行われるようになりました。リモートでの演奏会、観客を少数にして弦楽器だけの演奏会、色々試みがなされ、その演奏のビデオが紹介されました。努力している様が伝わってきます。
一番印象の残ったのは、演奏会の中止が相継いだ後、演奏会を開き、観客の拍手を受けたときにその拍手がオーケストラのメンバーたちの心に突き刺さったという話しでした。これまで行ってきた演奏会で拍手を受けることはある意味で当たり前のことでした。演奏が終われば聴衆は拍手をします。しかし演奏会の中止が相継いだ後の演奏会での拍手は、オケのメンバーに当たり前が当たり前じゃないことを思い起こさせたのだと思います。当たり前が実は感謝すべき事、ありがたいことだと認識されたのでした。
よく言われることは病気になって健康のありがたみが分かったと言われます。ずっと健康で生きてきた人は、健康であることのありがたみが分からないのです。しかし病気になって初めて分かったというのです。
そして「当たり前が当たり前じゃない」というフレーズが私の頭に残りました。そして一つのことが頭に浮かびました。
キリスト者といえども罪を犯すことがあります。ある人たちは、キリスト者でも罪を犯すのは当たり前のことで、だから罪の赦しをいただいて日々生きることができると考えていることです。そして赦しをいただけることは感謝なことであり、赦しを与える神さまをたたえます。
そこには、罪と戦い勝利しようとする意気込みが感じられないのです。罪を犯し赦しを受ける、これがキリスト者の生活であると受けとめています。おそらく、罪に打ち勝とうとした努力はされたのでしょう。でもうまく行かないことが何度かあったのです。そこで罪を犯しても赦されて感謝して生きるというキリスト者の生活が当たり前となっていくのです。これはキリスト者にとって当たり前なのでしょうか。
当たり前は当たり前じゃない!
当たり前は当たり前じゃない!
人は自分の力で神の戒めを守ることができないと聖書は語ります。しかし神の戒めを守ることのできる道が開かれました。キリストによって開かれました。
マタイ 5:17
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
ヘブライ 12:4
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
罪に対する勝利、これは神さまの恵みです。それは聖霊によってもたらされます。勝利するために条件が二つあります。
- 罪に対する勝利を心から願うこと
- 聖霊の導き、助けを祈ること
この二つを努力するなら、当たり前が当たり前じゃなくなります。罪に勝利する信仰生活が開かれます。そして新しい当たり前が生まれます。罪に勝利する当たり前の信仰生活。罪に負けてしまう信仰生活は当たり前じゃない!